人それぞれにドラマがある、という。しかし、戦争体験者のそれは、軽々しくドラマとは呼べないほどつらく悲しい記憶に縁どられている。あの日、何があったのか――。

祖母宅にひとりで疎開

「祖母宅は緑豊かな田舎の高台にあり、広い庭に椿や桜の木が植えてありました。食べ物がなく、周囲の家は庭を畑に変えていて、花の咲く木を植えている家なんてほかになかったそうです。祖母は面疔(めんちょう)で顔が引きつっていましたが、私はちっともこわくなかった。私のことを“ひよこ、ひよこ”と呼び、思いっきり愛してくれましたから」

 東京都小金井市の千村裕子(ちむら・ひろこ)さん(79)は、母方の祖母・伊藤セツさん(1977年没、享年85)の思い出をそう振り返る。

 新潟県新潟市で両親やきょうだいと暮らしていた千村さんは終戦の’45年、国民学校(小学校)の1年生になったばかり。同県新津市(現在の新潟市秋葉区)の祖母宅に遊びに行くのが楽しみだった。小学校の教師をしていたセツさんは開戦翌年に夫・良吉さん(享年51)を脳出血で亡くし息子4人を戦地にとられて、ひとり暮らしをしていた。

「そんな8月初めのある日、近隣の長岡市が大空襲を受け、数日後に怖い噂(うわさ)が流れてきたんです」

 広島に変な爆弾が落ちて全滅した。次は新潟市に落ちるかもしれない──。

 一家は白根市(現在の新潟市南区)に疎開し、千村さんひとりだけが祖母宅に疎開することになった。セツさんから「寂しいのでうちに来て」と請われたからだった。

終戦の日は葬儀の日だった

 数日後、終戦の日を迎えた。庭で近所の人たちが玉音放送を聞いていたが、幼い千村さんには意味などわからなかった。そして、セツさんには別の意味で特別な日だった。

「三男・恒也(つねや)さん(享年24)と四男・俊郎さん(享年22)の葬儀の日だったんです。立て続けに戦死の知らせを受けた祖母は“つねこう、どこいった。としぼう、どこいった”と部屋の中をあっちへ行ったり、こっちに来たりしていたそうです。やがて納骨のときがきて私も一緒にお墓に行きました」

 墓に届けられた骨壺(こつつぼ)を開けて驚いた。