成功体験なんて、そう簡単に人は得られないものではないか。大橋さんにそう問うと、「でも何かをやりきった感じは得たことがあるでしょ?」
と言われる。確かに記事を1本書いても、ある種の達成感はあるのかもしれない。意識したことはないけれど。
「意識したことがないというのは得ているからですよ。私なんて、本当に1度もなかったからね。親から“よくやったね”“頑張ったね”と言われた記憶もない」
大学に合格したときも達成感はなかった。もっと偏差値の高い大学を目指していたからだ。ゼロか100かという考え方だから志望の大学でなければ自分の価値は「ゼロ」。そのこだわりは普通の人と比べものにならないのかもしれない。そういう言い方をすると、大橋さんの表情が変わる。
「普通ってなに? そういう言い方そのものがムカつく」
私も言い返した。
「だって違いがわからないわけよ、私には。できないことがあって困っている人はたくさんいるし、誰でもモヤモヤしながら生きているわけだし」
私が正直につぶやくと、彼の顔が和んだ。
「わからないって言ってくれたほうがありがたい。たぶんね、便宜上、僕も“普通の人”って言うけど、うちらの界隈(ひきこもり、及び発達障害)にいる人は理想の大学に入れなくても、入学できた大学で頑張ればいいやって気持ちを切り替えられないわけ。必要以上に自分を責め、自分をダメだと思い続ける」
気持ちを切り替えればいいと言われてもできない。一事が万事、そうだから日常生活が滞る。大橋さんはちょっとせつなそうな表情になる。
大橋さんが自分を「ワタシ」というとき、どこか他人事の公式見解が入っているようで、「僕」と言うときは声音も含めて本音に近く、親密な雰囲気を醸し出すように感じた。