当時、日産自動車栃木工場に勤めていた元従業員男性は、

「リストラされた人の多くは50〜60代だった。親の介護や子どもの学校などのため転居できずに会社を辞めた人もいます。再就職がうまくいかなかった人や、退職金で飲食店を始めた同僚もいましたが、彼らはゴーン氏逮捕のニュースをどんな思いで受け止めたのか」

 と思いを馳せる。当時50代だった知人がリストラされた、と話す元下請け会社の男性は、

「その知人は下請け会社に再就職したけれど、日産時代のことは一切話さないんです」

 と切られた従業員の心の傷の深さをほのめかす。

追い込まれた従業員

プリンスの丘公園入り口には『スカイラインGT-R発祥の地』と記された碑がひっそり建つ
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 村山工場でフォークリフトのエンジン設計などを担当し、全日本金属情報機器労働組合日産自動車支部で書記長だった境繁樹氏(75)は、

「リバイバルプランが発表されたとき村山工場では約3000人が働いていた。私たち組合の調べでは710人が神奈川県横須賀市の追浜工場に異動、1010人が栃木県上三川町の栃木工場に異動するなど、車種や業務に合わせて転勤を余儀なくされました」

 と振り返る。

 境氏によると、転勤するしかない従業員は家族の生活などを考え、その多くが単身赴任を決めたという。

 しかし、例えば栃木工場で会社が用意したのは狭くて不便な独身寮だった。会社に尽くしてきたベテラン従業員はみな6畳ひと間に押し込められ、冷蔵庫を置くスペースもなく、トイレ・風呂・洗濯機は共同使用という生活を送った。

 耐え切れずにマイホームを手放して家族で引っ越した者もいれば、仕事を辞めた者もいた。ストレスなどから離婚した夫婦も少なくなかったという。

「結局、'01年4月までに元村山工場出身の退職者は620人以上にのぼった。60歳まで勤め上げた定年退職者は100人程度にすぎなかった。つまり、従業員のほとんどは退職に追い込まれたんです」

 と前出の境氏。

 大規模リストラ後、会社は労働力不足を補うため派遣や非正規労働者の雇用を進めたが、ゴーン容疑者はリーマン・ショックに直面した'09年に派遣社員や非正規社員など2万人のクビをまた切った。

「ゴーン氏は、従業員の生活を向上させようという観点が全くない人間だった」(境氏)