振り返ればSMAPもまだジャニーズJr.の1グループでしかなかった1989年。独自のレギュラー番組こそ持っていたものの、当時はアイドル出演がメインのバラエティばかりでした。なのでSMAPだけが突出するわけではなく、平家派もまた同じジャニーズJr.として、メディに登場する理由は、均等にあったのです。
平家派にはSMAPから“漏れた”形の、少し年上のJr.が多く在籍していたため、グループの雰囲気も自然と異なり、同じジャニーズファンの間でもSMAPを推す人、平家派を推す人と好みが分かれることがあったといいます。
そして平家派のメディア露出が最も多かったこの1989年、SMAPと平家派が出演していたテレビ番組『アイドル共和国』(テレビ朝日系)で、平家派の城島さんと山口さんが新しいバンドユニット『城島茂バンド』を組んだことが、後のTOKIO誕生のきっかけになりました。
ただ、名前からして光GENJIの存在とかなり結びつきが強かった平家派は、光GENJIの活動内容の変化に伴い、翌1990年頃にはいつの間にか自然消滅してしまうという憂き目にあっています。
のちに、その時の思いを平家派のメンバーだった国分さんは、こう話しています。
《光GENJIに対抗して、平家派というネーミング。剣を手に踊るなかなかの存在感。(中略)輝かしい時代の気配もあいまって、このままデビューか?と思い上がっていました。だけど現実は容赦なく僕らの夢を撃ち砕く。希望の剣が「SOS」を知らせる手旗信号に変わったとたん、僕らの夢も沈没していった》(NHK総合『ザ少年倶楽部プレミアム クリスマススペシャル』2011年12月25日)
そして結果的にジャニーズJr.内で、グループとして残る形になったSMAPは光GENJIの弟分として、1991年に『Can't Stop!! -LOVING -』でCDデビューすることになっていきます。
世が世なら、もしかすると平家派はSMAPと対のデビューグループとなり、後にNEWSや関ジャニ∞が切磋琢磨(せっさたくま)しあっていたように、同世代として競い合いながら活動を続けていたのかもしれません。
しかし時代はまだ平成が始まったばかりの90年代初頭。バンドブームの影響などで「冬の時代」に突入し始めていた当時のアイドル界において、平家派の活動存続は実際問題、とても難しいものでした。
3回目は「木村拓哉と長瀬智也の共演に歓喜、SMAPの背中を追うTOKIOの原点」をお届けします。
乗田綾子(のりた・あやこ)◎フリーライター。1983年生まれ。神奈川県横浜市出身、15歳から北海道に移住。筆名・小娘で、2012年にブログ『小娘のつれづれ』をスタートし、アイドルや音楽を中心に執筆。現在はフリーライターとして著書『SMAPと、とあるファンの物語』(双葉社)を出版している他、雑誌『月刊エンタメ』『EX大衆』『CDジャーナル』などでも執筆。Twitter/ @drifter_2181