伊与原新さんの最新刊『月まで三キロ』は、科学や研究者の世界を交えながらさまざまな人間模様を描いた6つの物語からなる短編集。伊与原さんは、地球物理学の研究をしていた元科学者だ。
科学の世界に触れた
人間を描いた小説
「編集者の方と『科学の世界に、ふと、偶然触れてしまった人に何が起こるのか、という短編小説はどうでしょう』と話したことが、この短編集を書くきっかけとなりました。
ただ、ミステリーでもなく、エンタメの王道でもない小説ですから。おもしろく読んでもらえる作品になるのかどうか確信を持てないまま、手探り状態で書き進めました。1冊にまとまったものはわりと喜んで読んでもらえているので、僕自身、意外な驚きを感じています」
本書に収録されている6編のうち、最初に書き上げたのは、表題作でもある『月まで三キロ』。起業した会社も結婚も破綻して借金だけが残り、死に場所を探す中年の男と、彼を乗せたタクシー運転手の人生が交錯する物語だ。この小説は、とあるモノをきっかけに物語が創られていったという。
「そのモノ自体はすごくロマンチックなのですが、でも、ストーリーは違ったものにしたかったんです。そこで、絶望した男の物語にしようと思い、ストーリーを考えはじめました。また、自分の昔の専門分野に近いこともあり、月に関する科学的な知識も少し取り入れようと思いました」
太古の昔、月は今よりも速く、くるくると自転していて、あらゆる面が地球から見えていたこと。月は1年に3・8cmずつ地球から遠ざかっていて、地球と月が生まれた40億年前より昔は地球との距離は今の半分以下で、地球から見える月の大きさは今の6倍以上だったこと。
絶望した男へ月にまつわるエピソードを披露するタクシー運転手は、元高校の地学の教師だった。
「僕の先輩に、研究者への道を途中でやめて高校の教師になった人がいるんです。また、科学への熱い思いを持ったまま教職に就いて、科学部や天文部の顧問として熱心に教育活動をしている人もいます。この運転手さんには、そうした人たちの存在が反映されているんです」
また、主人公の男性の境遇や心情は、伊与原さん自身にも共通するものがあるという。
「僕は大学での研究をやめて小説の世界に入ってきています。ですから、いつ、人生につまずいてもおかしくなかったですし、『いざとなったら親に頼れる』という甘えた気持ちもわかります。
ただ、僕は主人公のように、親に対して屈折した気持ちはないですが(笑)」