前回の発表方法を決めた竹下氏は当時、「平成を決めたのは自分だが、歴史に残るのは小渕だわな」と周辺に話していたとされる。「汗は自分でかきましょう。手柄は人にあげましょう」が口癖だった竹下氏だけに、政界では「竹さんらしい」(自民長老)との評もあったが、当時の関係者は「小渕さんへの想像以上の反応に、『本当は俺が』と後悔していた節もある」(官邸筋)と振り返る。

 今回も菅氏が「令和」と墨書された大きな額を掲げ、カメラのフラッシュを浴びたが、額は台の上に固定され、間をおかず安倍首相が登場して同じ会見台で談話を読み上げたことで、改元発表での主役は首相となった。

 会見開始時間も菅氏は地上波民放テレビ各局の昼ニュースが始まる午前11時半に合わせ、首相会見は正午のNHK昼ニュースの冒頭に合わせて全国に同時中継された。

改元5カ月以内に首相退陣という「呪い」

 首相サイドは「首相と官房長官の双方の面子を立て、結果的に首相が主役になるような演出となった」(側近)と解説。自民党幹部は「竹下氏と違って『俺が俺が』の傾向が強い首相だが、元号公表での『独り占め批判』を気にして、2段階にしたのでは」と苦笑する。これにより、首相が退陣後に「令和総理」と呼ばれる機会もありそうだ。

 統一地方選前半戦の最中の新元号決定・公表は「安倍政権や与党にとってプラスの要因になる」との見方もある。さらに、政府が新天皇即位など一連の歴史的皇室行事を準備万全でこなすことで、「参院選に向けて政権浮揚の材料になる」(官邸筋)との期待も膨らむ。

 ただ、明治以降の改元に絡んだ政権のその後を検証すると、共通の歴史も見えてくる。明治から大正に元号が改められて以降、いずれも改元から5カ月以内に改元時の首相が退陣に追い込まれているからだ。このため、政界では秘かに「改元の呪い」との噂も広がる。

 実際に昭和から平成への変わり目では、1989年1月8日の改元から5カ月足らずの6月3日に竹下首相が退陣した。「大疑獄」となったリクルート事件と、初めての消費税導入で竹下内閣の支持率が消費税(3%=当時)並みの一桁台に落ち込んだのが原因だ。

 その前は1926年12月15日に大正から昭和に元号が変わったが、当時の第1次若槻礼次郎内閣は昭和金融恐慌での台湾銀行の救済案を枢密院で否決され、翌1927年4月20日に総辞職した。さらに、第2次西園寺公望内閣は1912年7月30日の明治から大正への改元後、閣内での陸軍との対立などが原因で、同年12月21日に総辞職した。