もう限界だった
日本を代表するテニスプレーヤーとして、2000年代に輝かしい成績を収めてきた杉山愛のラストマッチとなったのが、2009年9月、34歳のときに行われた『東レ・パンパシフィックオープン』。テニス愛好家で知られる皇后美智子さまが見守られる中、最後の試合に臨んだ。
大会に先立ち、世界トップ30の選手たちが顔をそろえ、引退セレモニーは盛大に行われた。
「テニスツアーは、1月のオーストラリアから11月の第1週まで世界各国で大会が行われるハードなスケジュール。その年の夏は納得のいくパフォーマンスをするため、ツアー中もかなりトレーニングで追い込みました。そのとき、これをさらにワンシーズン続ける自分の姿が、もうイメージできなくなっていました」
愛は28歳でピークを迎え、30歳を過ぎたころから肉体的にも回復が遅くなり、引退する年にはストレッチから呼吸法まで「33のルーティン」をこなしてから試合に臨むようになっていた。
「もう限界でした。それでも続けたのは、この道を選んだからにはやりきろうという思いがあったから。やりきれれば次の人生が見えてくる。そんな思いがあったからです」
長年コーチとしても杉山を間近で見てきた母・芙沙子さんも引退会見に同席。
「本当に頑張ってきたし、もう頑張らないでいいよと声をかけてあげたいです」
そう言われ涙する愛。
「今後はジュニアなど、後進の指導をしていけたらいいな」と将来の目標を口にした。しかし、引退後の愛を襲ったのは“燃えつき症候群”だった。
引退した当初、テレビのコメンテーターやラジオのゲスト出演、講演活動など仕事が仕事を呼び、多忙ながら新しい経験ができる日々に、喜びを感じていた。
ところが、3か月を過ぎたころ、身体に異変が起きる。
「現役のころは、決まったルーティンをこなして試合に臨む。規則正しく、すべての時間、自分と向き合えました。ところが引退後は不規則で神経も遣い、気づけばジッとしていても天井がぐるぐる回るような症状が現れました。充実感どころか、心も身体もバラバラでした」
選手として「世界ランクトップ10」入りを目指して、短期、中期、長期的なプランを立て、たゆまぬ努力を続けてきた愛は、引退後の生活で目標を失っていた。
「自分は一体どこに向かっているのだろう」
自問自答する日々が続く中、10年以上つけていた日記の中にヒントを見つける。
「現役のころは毎日、日記をつけ、その日あったことや、感じたことを書くことで自分の気持ちと向き合っていました。体調や気持ちの変化を知り、それが試合に向けて、とても役に立ちました。そこからヒントを得て、“一体、自分が何をしたいのか”心にポッカリと穴があいてしまった自分に問いかけるような気持ちで書き始めたのが『ウィッシュリスト100』なんです」
人生でやりたいことを片っ端から書き綴った「ウィッシュリスト」は、34歳にして始まった新しい自分探しの旅。