意欲を取り戻した母の言葉
「ママ、来てくれない!? すぐこっちに来て!」
愛が、ツアー先のアメリカから泣きながらSOSの電話をかけたのは、2000年7月のこと。当時つきっきりで見ていた女子選手のインターハイ優勝を見届けると、母・芙沙子さんは飛行機に飛び乗った。
「久しぶりに見る愛は、コートに立っていても涙を流し、何を練習していいかもわからなくなっていました。何より驚いたのは、あれほどテニスを好きだった愛が、テニスをまったく楽しめなくなっていたことです」
希望の光がまったく見えないまま試合に臨む愛。しかし、皮肉なことにシングルスのランキングが50位以下に沈む中、ダブルスでは全米オープンの後も優勝を重ね、この年のダブルス世界ランキングでは世界一に輝き、多くのメディアが彼女の快挙に喝采を送った。
後に愛とダブルスを組み活躍した元プロテニスプレーヤーの浅越しのぶさんは、「いつも楽しそうにツアーを回っている愛さんが笑顔もなく別人のようでした。大会中、試合に負けてもコートを予約して練習に明け暮れる。いたずらにハードな練習を繰り返す愛さんを見るのがつらかった」と当時を振り返る。
2000年10月、コーチとの契約を終了。自分のテニスを見失った愛は、この時点で引退を考えていた。
弱音を吐く愛に母は、
「あなた、やるべきことをやりきったの? ここでやめたら、ほかのことをやってもうまくいかないんじゃない?」
と諭したという。
─やりきれてない。
母の言葉で意欲を取り戻しコーチに就任した母・芙沙子さんと愛の復活を賭けた二人三脚が始まった。
「ピンチはチャンス。ここまで追い込まれなかったら、変化を恐れずリセットすることはできなかったし“トップ10”に入る夢を叶えることもできませんでした」
ボールの打ち方すらわからなくなっていた愛は、過去の栄光も忘れて1からボールに向かった。するとプロ入りするときに誓った「見てくれる人に勇気、感動、元気を与えるプレーがしたい」という思いが再び甦った。
「それと同時に、25歳の大人の女性として、自分の将来を見つめ、テニスというツールを使って自分探し、自分磨きをしようという思いも芽生えました。引退後に途方にくれたとき、第二の人生に向かってやりたいことをウィッシュリストに書くことで気持ちを切り替えられたのも、このスランプを乗り越えた経験があったからだと思います」
“スランプ脱出”に取り組み1年、復活の手応えをつかんだ愛は、2003年2月、アメリカ・スコッツデイルで行われた「ステート・ファーム・ウイメンズ・テニス・クラシック」でシングルス&ダブルスを制して完全復活。
ダブルスではこの年の全英オープン、全米オープンの2冠を達成。そして2004年にはシングルス8位となり、夢にまで見た「トップ10入り」を果たした。