2番目に目立っていたのは、「自分はどんなにつらくても絶対にこんなことはしない」というコメント。もちろん間違いではないのですが、第三者である以上、「自分は」という視点にあまり意味はありません。「自分は」という主観を込めたフレーズは感情論そのものであり、被害者と加害者の前に「自分は」が来る人は、感情>理性の思考回路から抜け出せず、「知らぬ間にストレスをためてしまう」タイプなのです。
その他で気になったのは、「こういう底辺の人間といかに関わらないようにするかが重要」「おかしな人間は隔離すべきだ」「どうせロクな親じゃなかったんだろう」といった人をさげすむようなコメント。どれも差別的な目線に基づくものであり、「犯罪者だから第三者が何を言ってもいい」というわけではないでしょう。
このように、自分の中に生じた感情を一つひとつ理解しつつ整理していくことで、おのずと理性的な思考回路になっていくでしょう。そもそも相手が犯罪者とはいえ、脊髄反射的に批判をしたくなってしまうのは、日ごろ感情的な思考回路になっていることの証。それは必ずしも悪いことではありませんが、あなたが一流のビジネスパーソンなら、怒りのパワーをSNSへの書き込みに注ぐのではなく、「再発防止」「リスク軽減」「安全対策」などの理性的な議論に転換していきたいところです。
錯乱状態の人でも話を聞けば心は晴れる
こういうコラムを書くと必ずと言っていいほど、「PV狙い」「炎上商法」と私自身もバッシングされてしまいます。それでも書くのをやめないのは、「犯人批判と被害者哀悼だけでは、新たな悲劇を生んでしまう」という懸念が消えないから。
今日も朝から民放全局の情報番組で大々的にこの事件を扱っていますが、「加害者」と「被害者」の人柄にフォーカスし、視聴者の共感を狙うものが多いことに疑問を感じてしまいます。一人ひとりが感情的な思考回路を閉じずに考え続けていくことの重要さはメディアも同じ。個人とメディア、双方が今後に向けた議論を重ね、対策を講じていくことが、悲劇的な事件のリスク軽減につながっていくのではないでしょうか。
長年コンサルをしていると、外見は普通でも、話してみると精神が病んでいたり、錯乱状態で会話にならなかったりする人が少なくありません。ときには、「こんなにつらいなら死んでしまいたい」「『みんな不幸になれ』と思っている」「殺したいほどあいつが憎い」「絶対に復讐したい」などと話す人もいました。それでも、たまりにたまった負の感情をこちらに吐き出し、ごくわずかでも光が見えることで、どこかすっきりした顔で帰っていくものです。
最近は「効果的な言葉をかけるより、話をしっかり聞くこと」「孤独感をやわらげ、存在を認めること」を重視したコンサルを行っていますが、これは特別なスキルが必要なものではなく、身近な人に対して誰もができるコミュニケーションにすぎません。もちろん、孤立した人に対して、「君子危うきに近寄らず」という対処方法もありですが、一方では「その方法だけで逃げ切れるのか?」という疑問も拭えないのではないでしょうか。
私たちはどこまで行っても、事件の当事者にはなれず、第三者でしかいられない存在。だからこそ、まるで自分が被害者であるかように加害者批判を繰り返すのではなく、第三者の立場から被害者を悼み、「事件から何を学び、今後につなげるのか」を考える。きれいごとや理想論と言われても、悲劇の可能性を1%でも減らせるのなら、それはやるべきことのような気がするのです。
木村 隆志(きむら たかし)コラムニスト、人間関係コンサルタント、テレビ解説者。テレビ、ドラマ、タレントを専門テーマに、メディア出演やコラム執筆を重ねるほか、取材歴2000人超のタレント専門インタビュアーとしても活動。さらに、独自のコミュニケーション理論をベースにした人間関係コンサルタントとして、1万人超の対人相談に乗っている。著書に『トップ・インタビュアーの「聴き技」84』(TAC出版)など。