最後の電話で伝えたかったこと
「お嬢さんから“健ちゃんに電話して”と言いつかりました。ところが、高倉さんは歯医者さんに行かれてたらしく留守だったんです。高倉さんは後日折り返してくださったんですけど、その時はお嬢さんの具合が悪くなっていて、電話に出られなかったんです」
一時はベッドの上で絵を描いたり、屋上を散歩したり、回復に向けて意欲を見せていたひばりさんだったが、6月13日に人口呼吸器が付けられてからは意識を失ったまま。そして6月24日未明、眠るようにこの世を去った──。
1年後、主を失った美空ひばり邸に、高倉健さんから届け物があった。黒い漆塗りの箱に入ったお線香だった。
「それから毎年欠かさず、お嬢さんの命日にお線香が届くようになりました。高倉さんはずっとお嬢さんのことを気にかけていてくださっていたんです。
お墓参りにも行ってくださっていたようで、和也さんがばったり会って“お前も頑張れよ”と励まされたこともあるとおっしゃっていました」
平成5年、京都嵐山に「美空ひばり館」がオープンした時も、健さんはお忍びで現地を訪れた。
「いつものように1人でふらりといらっしゃって、“いいよ、出迎えなんていらないからね”と、本当に気さくなんです。階段のところに水が流れる『川の流れのように』という展示のコーナーがあったのですが、“ここはお嬢を感じるなぁ。鳥肌が立っちゃうよ”と、おっしゃっていました」
病室からかかってきた最後の電話に出られなかったことは、健さんもずっと気にかけていた。
「“あれは何の用だったんだろう?”と何度も聞かれたんですが、私もどうお答えしたものかわからなくて……。でも、やっぱり“名札”のことだったと思うんです。お嬢さんはそのあたり律義だから、直接ご自分でお伝えして“勝手に名前を使ってごめんなさいね”と言いかったんじゃないかと思います。
こんど高倉さんに会ったら、このことをお伝えしなければ、と思っていたのですが、叶わないまま、高倉さんも亡くなってしまいました」
ひばりさんの没後30年にして、初めて秘話を明かしてくれた関口さん。
先ごろ出版された書籍『美空ひばり恋し お嬢さんと私』には、ほかにも生前の2人の交流エピソードが綴られている。