沖縄の建設業は復帰前、アメリカによって資材の発注先を制限された。復帰後は、完工実績によって沖縄の建設会社は入札制限をかけられた。ほとんどは県外企業が工事を受注。当時の県建設業協会は何度も訴えたが、公平な競争にはならず、下請企業として組み込まれた。
「沖縄戦の直後は焼け野原。まずは建物を作らないといけない。そのために働く大工は尊敬されました。待遇も悪くなく、誇りを持って働いていました。しかし、本土復帰後は工事の単価が下がり、『土方』や『建築』と呼ばれ蔑視される仕事になり、地域と分断されました。沖縄の会社は中小零細。不景気にはつぶれるしかなかった」
暴力肯定の仕組みが作られた
失業すると、ヤンキーたちはどう対処したのか。
「県内の会社は給与の支払いが遅れたり、一部支給となりましたが、後輩たちを雇うことで乗り切った。ブラック企業であり、後輩たちは労働力の調整弁ですが、そうしないと会社がつぶれます」
助け合いの文化のように見えるが、ヤンキーは友人や親族の助け合いからは、はずれた人たちだという。
「助け合いを意味する『ゆいまーる』が機能するのは中間層だけ。ヤンキーの若者たちが生きる地元はひとつの社会ですが、そこで行われているのは奪い合いであり暴力肯定の仕組みが作られた。先輩・後輩の関係を時間をかけて築いており、代えがきかず、抜ける選択肢はありません」
暴力は肯定されるべきではない。なくすには条件が必要と打越さんは指摘する。
「建設業は必要な人に家を作ってきた。尊敬されるべきだし、見合った収入も必要です。そうなれば理不尽な上下関係も軟化しうる」
沖縄の貧困と暴力は、アメリカと日本の政策によって生み出された。是正するための施策が必要だ。
(取材・文/渋井哲也)
渋井哲也 ◎フリーライター。栃木県那須郡出身。長野日報を経てフリー。いじめや自殺、若者の生きづらさなどを中心に取材。近著に『命を救えなかった―釜石・鵜住居防災センターの悲劇』(第三書館)
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