弱音を吐かなかった少女たち
病院には各地からトラックで負傷者が運ばれてきてすし詰め状態に。和田さんたちは手当てに追われた。
うめき声、体液や焦げたにおいが充満する病院内。皮膚が焼けこげ性別もわからない人、ヤケドで顔がパンパンに腫れた人。腕を負傷して皮一枚でつながっている人……。
中でも全身大ヤケドを負った10歳くらいの男の子のことは今でも忘れられない。
「“痛いよ、お水が飲みたいよ”“お母さん”とずっと泣いていました」
院内は断水。せめて水を飲ませたいと思った和田さんは焼け跡に水を汲みに行った。
「その子が喜んで飲んだことは覚えていますが、気がついたらもういませんでした。死んでしまったかもしれない。でも、もしかしたらどこかで生きているんじゃないかって、今でも考えます」
負傷者も死者も増えていく一方で、和田さんらは飲まず食わず、不眠不休で働いた。
その過酷な状況にもかかわらず10代後半の少女たちは弱音のひとつも吐かなかった。
「それが私たち看護婦の任務であり、お国のために働くものと思っていたからです」
空襲から一夜明けた和田さんのもとに突然、父親が現れた。娘の無事を案じ、自転車でやってきたのだ。
「父は重箱に母が握ったおにぎりを詰めてきました。“会えてよかった、無駄にならなくてよかった”と言って……」
父親のくれたおにぎりはひとつをピンポン球くらいの大きさに分け、仲間に配った。
「本当においしかった。あの味は今でも忘れません」
和田さんは23歳で退職し、海老名市に戻って結婚、子育てをしながら働いた。
「私たちが10代のころなんて青春なんて全くなかった。恋愛もおしゃれも、食べるものだってなかった」
多くの死を目の当たりにした和田さんは戦後、多くの新しい命を取り上げてきた。令和の世の中に望むことは、
「とにかく平和な世の中。ほかの国とも仲よくして、平和に過ごしてほしい。戦争はもう嫌ですね……」