旅行中も勉強
「入社当時から抜群に絵がうまくて、仕事ができた。まさに天才ですよ。ところが、本人は天才と呼ばれるのが嫌いで、“裏でどれだけ努力しているのか、知らないんだよ”とよくこぼしていました」
と話すのはシンエイに同期で入社した元プロデューサーの田村正司さん(61)。
「最初の社員旅行の日は日曜日だったんですが、夜の宴会のときに木上さんはそわそわしだして、時計ばかり気にしているんです。
ご飯も食べずに、7時30分になると抜け出して、部屋で『フランダースの犬』を見ていたんです。旅行中も他社の作品を、きちんと勉強していたんですね」(田村さん)
冒頭の奈須川さんは、
「木上さんは野球界で言えばイチロー」
だと表現する。
奈須川さんがシンエイに入社したとき、1年先輩の木上さんはすでに20年もキャリアのある先輩と肩を並べ、仕事をしていたという。
ちなみに、シンエイの前身のAプロには、宮崎駿さんや高畑勲さんも所属していた。
猪木やプロレスの悪口を聞くと、酒をかける
木上さんは入社から2年ほどで『怪物くん』の作画監督を務めたが、3年を経た'82年、シンエイの男性6人とともに、新しいアニメ下請け会社「あにまる屋」の設立に加わった。
あにまる屋は現在、「エクラアニマル」という名称になっているが、同社のアニメーターで、あにまる屋の2代目社長だった本多敏行さん(69)が当時を懐かしむ。
あにまる屋は別名“野獣屋”と呼ばれる、一風変わったアニメ会社で、毎日のように近くの寿司店で飲み会を開いていたという。
「普段は口数が少なくて黙々と仕事をする木上さんでしたが、酒は飲むほうでした。
ある時、寿司店でアントニオ猪木やプロレスの悪口を言った隣の客にピュッと酒をかけたことがある(笑)。
大友克洋さんと『AKIRA』の仕事をしたとき、絵にこだわる大友さんが殴られたという噂があってね。“だったら、あにまる屋の連中に違いない”と噂になったことがありました。武闘派が多かったですから(笑)」」
みんなプロレス好きだったので、蔵前の国技館などに新日本プロレスの観戦に行くことも。社屋の大家さんに頼んでスペースを借りトレーニング器具を置いて、身体を鍛えたこともあったという。
「木上くんは、筋トレはそれほどしなかったけれども、観戦は大好き。シンエイ時代のある夜、真っ暗な会社に忘れ物を取りに戻った社員がいて、薄暗い中で彼がプロレスのビデオを見ていたそうですよ」(本多さん)