受刑者の詩に隠された「呪い」
私が9年間、講師をしていた奈良少年刑務所にも、高い理想に追い詰められて、結果的に犯罪を犯してしまった子が来ていた。刑務所に来ても、最初からピンと背筋が伸び、ハキハキと返事をし、立派でまっとうなことを言う。そんな子が書いてきた詩がある。
『ここ一番の心がまえ』
ここ一番の心がまえ
己の筋道歩みとおしきり
礼儀わきまえ義務を知る
これこそ
我男なり
かけた情けは水に流せ
受けた恩義は石に刻め
ろくでなしの俺らでも
時には辛いときもある
だが
地獄にも咲く友情の花がある
素晴らしい言葉が並んでいるが、これは格言や人気漫画から借用したパッチワーク。この子の心には、こんな「男らしい」言葉がびんびんと響いてきたのだろう。しかし、これが、彼を息苦しくさせている原因だ。「男子かくあるべし」「長男かくあるべし」といった“男らしさの神話”にがんじがらめになっている子ほど、なかなか心を開けず、様子が変わらない。それは、「呪い」といっていいほどだ。
「理想の自分」は、親から期待されたり、世間が期待しているものであることが多い。根がまじめな彼らは「期待に応えたい」と必死になる。自己を律し、背伸びをし、無理を重ねる。期待に応えられれば、ほめてもらえるし、愛してももらえる。しかし、それは「これができるあなたを愛している」というメッセージであり、同時に「できなかったら、愛してあげない」という脅迫と裏表一体だ。だから、なおさら死に物狂いで頑張る。
期待に応えられれば自信を持てる。しかし、それは所詮「条件つき自信」にすぎない。頑張りだけでは結果が出ない場面が出てきたとき、無条件に愛された「根源的自信」のない彼らは、急速に自信を失ってしまう。「こんな自分じゃダメだ」「価値がない」と自己差別して、自分で自分を貶(おとし)めて、大きな挫折を味わうことになる。外部からの「期待される人間像」に依拠してしまったがゆえに、あるがままの自分自身を認められなくなってしまうのだ。
すると、問題行動を起こすようになる。苦しみや葛藤が内に向かえば、不登校や引きこもり、家庭内暴力、自傷行為に。外に向くと、非行や犯罪につながっていく。根はひとつだ。自己否定感から逃避するために、アルコールや違法薬物に手を出して依存症になってしまうこともある。