中学2年の春、地元にできたレディースに入った。チーム名は紫優嬢(しゆうじょう)。サラシに紫の特攻服を着た10数人のメンバーは、みんなカッコよくて、憧れた。

「かわいがってくれる先輩がいて、居心地がよかった。みんなといると、寂しく感じることもなかったし」

 深夜まで親がいないすえこさんの家がたまり場になった。すえこさんに誘われて紫優嬢に入った1年後輩の女性(42)は“おしるこ”とあだ名をつけられ、よく声をかけてもらったそうだ。

「私は家庭環境がよくなくて、学校も居場所がなかったし、紫優嬢には似たような境遇の人たちが集まっていたように思います。すえこさんの家に行くと、お母さんは嫌な顔ひとつしないで、ご飯も用意してくれて。みんなでシンナーを吸っていると怒られたけど、すえこさんは“うるせぇ!”と反抗していました。お母さんは忙しそうでしたが、すごく心配してくれて、“こんなにあったかいお母さんがそばにいるのに、何で?”と内心は感じていました

 中学3年のとき、母の敏子さんが家を出た。すえこさんが家に帰ると畳が血だらけだった。接客業の母にやきもちを焼いた父が、母の髪を切ろうとして頭を切ってしまったのだ。敏子さんはこのままでは殺されると思ったという。

「男はやさしいだけじゃダメなんだよね。子どもができて生活するなかで、稼ぎのない男はダメなんだと。お酒飲んで寝ているとき、首を絞めちゃおうかと何回も思ったよ。でも、子どもたちが人殺しの子になっちゃうと思ったら、できなかったね」

 しばらくして母から連絡があった。一緒に暮らそうと言われ、すえこさんが母のアパートに行くと、母の恋人らしい男性がいた。

最年少総長になり傷害で逮捕

 中学を卒業すると高校には行かず、15歳で4代目の総長になった。男の暴走族のバイクや車に乗せてもらい、暴走族の集会にも出た。

 総長になってすぐ、レディース暴走族雑誌『ティーンズロード』に大きく取り上げられた。当時、編集長だった比嘉健二さん(63)に聞くと、暴走族の全盛期は'78年から'80年代初頭。すえこさんが活動していた'90年前後には数は減っていたが、紫優嬢は目立つ存在だったという。

「総長インタビューをしたら、自信たっぷりで頭の回転が速い。男の暴走族は喧嘩上等とか粗暴なことしか言わないけど、すえこちゃんは自分たちのチームをどうしたいと、ちゃんと自分の言葉で話していたので、すごく印象に残っています。彼女は全国のレディースの中でも3本の指に入る人気でしたから、毎号のように取り上げました」

 世間はバブル景気に浮かれていた。一般誌やテレビも取材に来て、アイドルのように扱われた。だが、それがその後、思わぬ事態を招く─。