北海道芦別、炭鉱で栄えた頼城という町で、1949年に、べんさんは生まれた。
「父は炭鉱で働いていた。父と母は映画俳優のような美男美女で、シュッとしてたね。父は社交ダンスが好きだった。家ではラジオや蓄音機から、タンゴや歌謡曲が流れてた。僕も橋幸夫なんかを歌ってね。音楽好きは父親譲りかな」
『雨ニモマケズ』に共感
1万5千人の小さな集落に、映画館、総合病院、小・中学校、なんでもあった。戦後の炭鉱は福利厚生が充実。テレビ、冷蔵庫、洗濯機、いわゆる「三種の神器」の普及も早かったという。
当初は景気がよかったが、小学校に入るころから石炭は石油に取って代わられていった。
「父は普段は優しいのに酒癖が悪くてね。仕事も大変だったんだろうけど、飲むと文句ばっかり。夫婦喧嘩が決まって始まる。小学生のとき、空き瓶を持って酒を買いに行かされた。1合、2合と量りで買う。本当に嫌だったな」
炭鉱では管理職などの「職員」と普通の「社員」、現場で働く「組の人」、そしてさらに貧しい人たちがいた。そこには明らかな格差があった。少し離れたところにはアイヌの人たちも住んでいた。
大人の差別は子どもたちの世界にも持ち込まれ、いじめにつながる。「同じ子どもなのにどうして」と不思議でしかたがなかった。
「父の働きだけでは暮らせなくて、母も丸太を担ぐ重労働をしてた。僕が自分で弁当を作って、弟や妹の面倒をみた。寂しい生活だったね」
偏見や差別の渦巻く中、弱者に対する思いは人一倍、強くなっていった。そんな思いを抱えているとき、小学校の教科書で宮沢賢治の『雨ニモマケズ』を読んだ。賢治の作品に流れる、弱者に対する献身的な精神は、子ども心にも深く共鳴した。中学でその思いはさらに大きくなった。
「勉強は好きだったけど、授業中に何か引っかかることがあると、これはどうしてなのかなあと考え始めちゃう。そうしてるうちにどんどんわからなくなる。ゆっくり考えればできるのにっていつも思ってたよ。先生たちは“みんな平等だ”と口では言いながら、テストの成績を廊下に貼り出す。大人は言うこととやることが違うと思っていた」
中学3年生の夏休み前、父親は炭鉱を早期退職して退職金をもらい、千葉へ移住することになる。
北海道を離れる間際、ある先生にこう声をかけられた。
「君はいいものを持っている。それを大事にして伸ばしなさい。頑張るんだぞ」
いいものが何だかはわからなかったが、「僕のことをわかってくれる先生がいるんだ」と心強く思った。その言葉にずっと支えられてきた。