フォークソングによる社会活動
フォークソングとの出会いは高校生のころのことだ。
「このレコード聴いてみな」
そう言って仲間から手渡された1枚のEP盤は、キングストン・トリオの『500マイルもはなれて』。大人びたかすれた声に魅了され、すぐにフォークソングの虜になった。
「当時はラジオでよくフォークソングが流れていたし、平和や人権がテーマになっているものが多くてね。ピーター・ポール&マリーが大好きだった。古道具屋に父親と一緒にギターを買いに行って、独学で弾き始めた。酒を飲んでないときは、音楽好きのいい親父だったんだ」
人前で表現する醍醐味を知ったのは高校3年生のとき。学校の有志で芝居をやることになり、自ら台本を書き主演をすることになった。
「お前、台本書いたのだから出演しろよって言われちゃってね。普段は前に出るタイプじゃないんだけど、頼まれるとなんでも引き受けちゃう」
もちろん芝居は初めてだったが、相手役は演劇部のマドンナ。熱の入ったその子の芝居に引っ張られるように全員が本気になり大成功。観客から熱望され再演までした。
「キングストン・トリオの『トム・ドゥーリー』って歌があるんだ。南北戦争を背景に、男女のもつれから起きた殺人事件をもとにした歌でね、それを芝居にしたの。みんな、泣いちゃってさ。初めて、表現する面白さを感じたよね」
高校卒業後は学費の捻出が難しく、大学進学を諦めて電電公社に入社。川越支社に配属された。働きながら受験勉強を続け、夜学への進学を目指したが、そのうちに社会への関心を持つようになる。若者の大きな関心ごとは安保やベトナム戦争だった時代だ。フォークソングによる社会活動に情熱を傾け、仕事が終わると労音(勤労者音楽協議会)や歌声喫茶にギター片手に通うようになった。
冒頭のみわ幼稚園園長、三輪武さん(70)も、20代のころ通った川越の歌声喫茶で、べんさんを目にしたという。
「喫茶店を借り切って開催していた歌声喫茶に、必ずべんちゃんがいるの。入り浸っていたんじゃないかな。彼は歌もうまかったし、すごく目立っていたよね。ベートーベンの『第九(交響曲第九番)』を原語で歌う合唱団の事務局長も務めていました。見た目も目立つし、彼の周りはいつも賑やかでしたよ」
27歳のころ、音楽仲間10人で川越を拠点として埼玉フォークソング連絡会を結成。アマチュアのシンガーとしても求心力は強かった。フォークソングブームも追い風となり、最盛期にはメンバーは中学生から30代までおよそ170人に膨れ上がった。
「お金を出し合って事務所を借りて、土日に集まってみんなで歌った。『川越線の歌』『川越哀歌』、地元の歌を作ってね。楽しかったな」