今も生きている母の教え

 江戸時代、中山道の宿場町として栄えた長野県・木曽郡の吾妻村(現南木曽町)で昭和22年、外波山は終戦後に復員した父・等、母・たづ子との間に生まれた。

「僕は男ばかり4人兄弟の末っ子。生活が苦しかったから、母はよく清内路(せいないじ)峠を越え、米作りの盛んな飯田まで木曽の木材で作った桶(おけ)を担いで買い出しに出かけ、闇米や芋と交換して手に入れていた。米のとぎ汁をミルクがわりにしたこともあったらしい」

実家の製材所で、両親、祖母、男兄弟と。いちばん小さいランニングの少年が外波山
実家の製材所で、両親、祖母、男兄弟と。いちばん小さいランニングの少年が外波山
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 父は復員後、製材所を起こし、外波山が小学生のころには村会議員も務めていた。

「父方の先祖は木こりを生業としながら天竜川を遡(さかのぼ)り木曽にやってきた。親父は、達筆で短歌を詠んだりと教養があり、面倒見のいい人間だったんですよ。

 '59年の伊勢湾台風では、風倒木で川沿いの集落が20軒ほど流されてね。村会議員だった父が働きかけて高台に村営住宅を建てて住まわせ、のちに安い値段で譲渡するなど困った人を見て見ぬふりができない性分だったな」

 そのあたりの気性は、後に劇団を切り盛りしながら、危機に瀕(ひん)したゴールデン街を身体を張って守った外波山にも色濃く受け継がれている。

「ただ……。人付き合いのいい親父は、酒が好きでね。家に帰ると暴れだすこともよくあったな。そんな親父の姿を見て、子ども心に『絶対に酒は飲むまい』と誓ったんだけどな」

 と今や酒をこよなく愛する外波山は頬を緩める。

 南木曽町の中でも山深い集落で育った外波山。60軒あまりの集落でいちばん早く電話がついたこともあり、よく人が集まる家だったと明かす。

「当時、大平峠(現木曽峠)で車の転落事故などがよく起きてたんだけど、母は事故で困った人を家に泊め、郷土料理の朴葉(ほおば)寿司を振る舞ったりして、親身に世話をしていたな。『人に優しくすれば必ず自分に返ってくる』『自分じゃなくても、息子たちが助けられることもある』が母の口癖でね。その教えは今も僕の中で生きている

 小学校に上がると片道4キロの急な坂道を1日も休まずに歩いて通った。

「行きは楽だけど、帰りはずっと上り坂。友達と柿や栗などを盗んで怒られたことも懐かしい思い出だな。小5から新聞配達のアルバイトも始め、母の実家の田植えや稲刈りも手伝った。働くのは全然嫌じゃなかった。今も年のわりに身体が丈夫なのは、子どものころの鍛錬のおかげかな」

 学校に行くのが楽しくてしかたがなかった外波山だが、苦手な学科が1つあった。

「勉強はできたのにトバは音楽が苦手。学年の“三大音痴”と言われ、木曽郡の合唱音楽会のときは先生に声を出して歌うなと言われてましたよ」

 と話すのは小中高の同級生・赤坂孝さん(73)。

 そんな外波山が、少年時代に何よりも楽しみにしていたのが、山深い村で年に1度行われる神社の村祭り。

「境内には急ごしらえの筵(むしろ)掛けの舞台ができてね、地方巡業の一座が人情ものの大衆演劇なんかを披露してくれる。舞台裏を覗くと、おじいさんが白塗りの化粧をして娘役に化けていた。その白粉の匂いがなんともいえなかったな。

 飛び入りコーナーもあってね、普段はなんでもない村の大人たちが見事に浪花節を唸ってみせ、ミカンやおひねりが飛ぶ。私たちも木曽節やチョイナ節を夢中で踊ったよ」

 小学生のころから学芸会で『杜子春』や『因幡の白兎』などで主役を張ってきた外波山だが、あのとき見た旅回りの一座こそ、役者を目指すことになる原点。