2階の角部屋、家賃2千5百円
やがて高校生になると演劇部に所属。そして映画館に通い始める。
「三留野(みどの)の町(現南木曽町)には当時映画館が2軒あって、1週間ごとに2本立てがかわる。大学ノートに映画評もつけていたな。好きな映画は木下恵介、黒澤明、増村保三、稲垣浩といった監督の作品。年間100本は見ていたね」
映画館通いをするために、スクールバスの車掌のアルバイトも始めた。
「僕は始発の停留所から乗るから、定期のチェックはもちろん、ドアの開け閉め、笛でバスの誘導も手伝った。このバイトのおかげで定期代はただ。そのうえにお小遣いももらえたな」
映画館通いをするうちに、外波山の中で“映画監督”になりたいという夢も芽生える。
「黒澤明監督に直接、手紙を書いたのもこのころ。黒澤監督から返事は来なかったが、新藤兼人監督からは『環境が許せば、ちゃんと大学を出なさい。それからでも遅くない』といった励ましの手紙をいただいた。この手紙は今も大切にしまってあるよ」
しかし外波山の家には大学に行かせる余裕はなかった。高校の入学金や腕時計も、全部、自分のアルバイト代でまかなったぐらいである。
かといって、3人の兄が家を出た今、このまま家に残っていたら、家業をつがされるのではないか。
そんな恐れを抱いた外波山は、京都に本社のある大手薬問屋『中川安』に就職。勤務先の横浜で寮生活を始める。
しかし、思わぬ事態が外波山を襲う。
仕事を始めて半年がたったころ、父がバイクで崖から転落。右手を複雑骨折するケガに見舞われ、外波山は家業の製材所を手伝わざるをえなくなった。
「木材の買い付けや入札などに同行する毎日の中で『芝居がやりたい』という思いが日に日に募ってね。20歳の秋、とうとう親父とケンカして家を飛び出した」
上京する決心を固めた外波山は、世田谷区経堂の農家の離れ、2畳の部屋に転がり込んだ。
「2階の角部屋、家賃2千5百円。窓からは俳優・長門裕之と南田洋子の豪邸が見えてね。その家とわが家を比べて、まるで当時公開された黒澤明の映画『天国と地獄』のようだなと思ったね(笑)」
しかも季節は秋。養成所の募集もなく、途方にくれた外波山は公衆電話から電話帳を見ながら電話をかけまくり、代々木に劇場を持つ演劇集団『変身』に潜り込んだ。
「この年1967年は、小劇場ブームの黎明(れいめい)期。8月には唐十郎主宰の状況劇場が花園神社に紅テントを張って『腰巻お仙』を、9月には寺山修司主宰の天井桟敷が『毛皮のマリー』を上演して喝采を浴びていた。
また新宿の西口広場では土曜日になると『反戦フォーク集会』が行われ、翌年の『新宿騒乱』に向けて時代が大きく動きつつあった。僕も迷いなく小劇場の世界に飛び込んだよ」
だが舞台にすぐ立てるわけもなく、2年間は裏方仕事。当初は朝4時に起きて、山谷で日雇い仕事をしながら食いつないだが、やがて大道具の仕事をもらうようになる。実家の製材所を手伝い、釘打ちや鋸(のこぎり)の扱いにも慣れていたことが功を奏したのだ。
やがて腕と人柄を買われた外波山は、ぬいぐるみ人形劇『飛行船』の地方公演にも参加するようになる。
「大道具、運転手、舞台監督、そして出演となんでもやった。このとき一緒に回っていたのが俳優の柄本明、本田博太郎たち。今はみんな立派になったけど、当時は食べるのが精いっぱいだったな」
そんな外波山に初舞台のチャンスが訪れたのは、1969年。演目は『営倉』。ある軍隊の営倉での看守と囚人の日常を描き、教練やリンチのシーンも本気で演じてみせる壮絶な舞台である。
「本番中にケガ人が続出して救急車で運ばれる役者も出た。そんな中、僕は殴られようが蹴られようが痛そうな顔ひとつ見せない。だからみんな僕を殴りにくる(笑)」
と言って胸を張る。体力にはよほど自信があったようだ。