野外劇はハプニングの連続

 明治維新と70年安保を重ね合わせた映画『竜馬暗殺』は、1973年に公開され、ゴールデン街が産み落とした名作として今も語り継がれている。

 路上演劇で一躍その名を馳せた外波山は、演劇集団「変身」を退団。ますます“野外劇”にのめり込んでいく。

 中でも注目を集めたのが'73年に福島県・湯本の一軒家を借り切って25日間にわたって行った『外波山文明城』。

「6人の役者が寝泊まりして、それぞれが24時間芝居する。寝ているのも芝居。お客も投げ銭を払えば寝泊まり自由。この芝居を見に来ていた観客のひとりに当時19歳だった秋吉久美子がいてね。すっかり演劇が好きになったのか、その後、家出同然で上京。芝居の受付なんかを手伝ってくれていたけど、映画『赤ちょうちん』や『妹』でいきなり売れちゃったね」

 翌年には、決壊したばかりの多摩川の河川敷で、『唄入り乱極道』という作品でヤクザの抗争劇を描く。多摩川を管理している役人が帰るのを見計らって、夕方から準備を始めて夜に上演した。

「20人が両手に松明を持って多摩川を渡るオープニング。そして中洲に僕が登場して親分の敵討ちが始まるわけだが、途中で川面にガソリンをまいて火をつけて飛び込むシーンなんかも話題を呼んで3夜とも大入りだったね」

 その翌年には鎌倉・材木座海岸の海の家を毎週土曜日に借り切って芝居を打った。

「芝居の冒頭で、僕が海から女優を担いで登場するなど、やりたい放題。『はみだし劇場』の野外劇は回を重ねるごとに過激になっていって山崎哲や流山児祥たちと“アングラ第2世代”と呼ばれるようになっていた。野外劇はハプニングの連続だけど、誰もやっていないことをやっているという自負もある」

 このころ外波山にとって忘れられない出会いがあった。それは後に外波山の全芝居のポスターを描くことになるイラストレーター・黒田征太郎との出会いである。もともと、ゴールデン街の飲み友達だった黒田に、

「黒さん、今度、多摩川の河原で芝居やるんだけどポスター描いてくれない。ギャラは出せないけど、芝居に対する思いだけはあるので何とか描いてくれ」

 と頼んでみると当時、超がつくほどの売れっ子だった黒田だが、気持ちよく快諾。

「そのかわり、お前が芝居をやる限り、俺が全部描くからな!」

 それから46年。黒田の描くポスターは今や外波山演劇の代名詞ともなっている。