たこ八郎との思い出
さらに翌年、外波山は新たな出会いを求めて“シルクロードの旅”に出る。
「1年間のオープンチケットを買って、まずドイツへ飛び車を手に入れ、行き当たりばったりの旅に出た。ヨーロッパを縦断、トルコから中東を抜けてインド、ネパールまでの5か月間の旅。
はじめ1時間の芝居を用意していったんだけど、言葉も通じないし、すぐに人が集まってきて、警官とかに見つかってしまう。そこでチャンバラなんかのパフォーマンスをやることにした。投げ銭はもらえなかったけど、村の長の家に泊めてもらったりしたから、食べるものには困らなかったよ。交通事故や騒動で警察に事情聴取されたりとトラブルもいっぱいあったけど楽しい思い出。もし機会があれば今度はアフリカに行ってみたいな」
帰国後、外波山の破天荒な旅行記は『日刊スポーツ』で1か月にわたって連載され、その勇姿は、当時発売されていた『毎日グラフ』にも掲載された。
劇団『変身』時代の後輩が、もう1軒店を出すから『クラクラ』をやらないかと言ってきたのは1979年。外波山32歳のときだった。
「座長をしていると飲みに行くのも高くつく。自分の店ならみんなも集まれるし安く飲める。そんな考えから二つ返事で引き受けた。ただし、店をやると食べていけるようになり、芝居を辞めてしまう人も多い。そうはなりたくなかった」
そんな思いを胸に、引き継いだ『クラクラ』は、外波山の人柄もあり、開店当初から大勢のお客さんに恵まれた。
中でも、開店初日から亡くなるその日まで毎日飲みに来てたのがコメディアンのたこ八郎だった。
「新宿・区役所通りの『小茶』という店で会ったのが最初かな。ウマが合い家も近かったせいかしょっちゅう飲み歩いていたね。僕が店をやるようになってからはカウンターの片隅でよく酔いつぶれて寝ていたよ。浅草『花やしき』の前にある見世物小屋『稲村劇場』で芝居をしたころ、出てもらったこともある。
高倉健さんから、たこちゃんに直々に声がかかって、映画『幸福の黄色いハンカチ』に出たときは、本当にうれしそうだった。
亡くなった日も店が終わってから真鶴まで仲間5人で泳ぎに行ってね。海の上で振り向いたら溺れていて慌てて水を吐かせたんだけど、手遅れだった。葬儀委員長の赤塚不二夫さんに『お前がついていて何やってんだ』とドヤしつけられたな……」
1976年に芥川賞をとった作家の中上健次氏も常連のひとり。
「意気投合して、中上唯一の戯曲『かなかぬち〜 ちちのみの 父はいまさず〜』を書いてもらったんだけど、当時の中上は超売れっ子で、ここに来る編集者からもずいぶん文句を言われたよ。
この作品は1989年に、中上の故郷・熊野本宮大社でも上演され、本人にとっても思い出深い作品になったんじゃないかな」