結婚、そしてバブルの影
ほかにも常連の人気作家・立松和平には3本戯曲を書いてもらい、最初の『南部義民伝・またきた万吉の反乱』は、34年たった今も続けている花園神社で行う野外劇のさきがけとなった。
「花園神社は、唐さんの『状況劇場』が'67年に初めてテント芝居を打って以来、アングラ劇の聖地でもある。神主さんが“立松さんが書くなら”と言って許可してくれてね。花園神社が貸してくれる限り、ほかの劇団とも協力してこれからも野外劇を発信していきたいな」
このように、外波山の人生はゴールデン街の人脈によって支えられている、と言っても過言ではあるまい。その証拠に妻となるあさ美さん(60)との出会いも『クラクラ』だった。
「『クラクラ』のアルバイトの子が銀座の同じクラブにも勤めていて、その縁で『クラクラ』に連れてこられたのがきっかけ。店の汚さには、驚きました」
と、ひと回り下の妻は当時を思い返す。しかし一目惚れした外波山は、連日電話をかけ「飲みに来ないか」と留守番電話にメッセージを残し続ける。
「演劇のことはさっぱりわからなかったけど、外波山が家族思いなことは感じていたので結婚に踏み切りました」
芝居一筋できた外波山が40歳で結婚。男女2人の子どもを授かる。しかし外波山は、やはり並みの夫ではなかった。
妻にひと言の相談もなく、作家の田中小実昌氏たちと、ブラジルに小学校を建てる基金集めのために、ブラリと1か月も旅に出てしまったのである。
「雪が降る1月の寒い夜、乳飲み子を託児所に預けてクラクラで働き、夜中に迎えに行く日々。これにはホント腹が立ちましたね」
1990年には、主宰する「はみだし劇場」を「椿組」と改名。毎年、花園神社で野外劇を上演するなど今まで以上に精力的に活躍する外波山。
しかしバブルの影がゴールデン街に忍び寄りつつあった。
「'84年ごろから、地上げ屋に500万円から1千万円の大金をもらって、立ち退く店が相次ぎ、250軒ほどあった店のうち、100軒以上がなくなってしまった。公園などの施設ができるならまだしも、明らかに転売目的の地上げ。これは断固反対すべきだと思って『新宿花園ゴールデン街を守ろう会』を立ち上げた」
地上げされ、ベニヤ板を打ちつけられた店は痛々しく、その様子はマスコミでも連日大きく取り上げられた。
「守ろう会」では外波山らが先頭に立ち、黒田征太郎の「酒を捨てたら夢も死ぬ」と描かれたTシャツをはじめ、この運動に賛同してくれた赤塚不二夫、上村一夫、滝田ゆうといった漫画家が描いてくれたTシャツを売って資金を集め、弁護士を雇い地上げ屋と闘った。
「火事や火つけ騒ぎもあり、組合でガードマンを雇うだけでは手が回らず、土日は腕章をつけ自分たちでも見回った。それから毎年12月中ごろには『ゴールデン街はまだ元気ですよ!』と“餅つき大会”を開催。道ゆく人たちに餅や酒を振る舞った。これは10年続いたな」
そこには村で困っている人たちに尽くした父や「人に優しくすれば必ず自分に返ってくる」と話していた母の面影が見て取れる。