失敗した人が立ち上がる国、アメリカで
売り言葉に買い言葉。これに、彼女の交際していた恋人が宮城県気仙沼出身だったことも重なった。もっとも被害を受けた場所のひとつだったことはいうまでもない。「家族と連絡が取れない」と動揺するパートナー。それを隣で必死にサポートしていたマリエ。まだ22歳だった彼女には、誹謗中傷の言葉をスルーする心の余裕がなかった。「影響を与える側の人間として、しっかりと言葉をみんなに伝えなければならなかったでしょうし、これについてはアメリカでもいろいろと考えました」と目を伏せる。
次に「海外逃亡」疑惑だ。結論から言えば、マリエは逃げたのではなく、アメリカ留学は最初から決まっていたことだったという。10代の頃から憧れていたパーソンズ美術大学。当時のマリエは芸能活動で多忙のなか、努力に努力を重ねてこの試験に受かっていた。9月からスタートする大学入学の準備を含め、6月にはアメリカに行かなければならない状況だった。日本での仕事も3月をめどに整理をしていたところに起こったのが311だった。
そしてマリエのアメリカ生活が始まった。大学では勉強したかったファッションについて懸命に学んだ。そして2017年、29歳のときに自身がデザイナーを務めるブランド『PASCAL MARIE DESMARAIS(パスカルマリエデマレ)』を起ちあげる。
「大手アパレルメーカーには出来ないことをしていこうと思いました。例えば、捨てられていくジビエの皮を全部請け負って商品にしようと。大手だと傷物を扱うことがそもそもタブーなんです。“傷”を追った野生動物の皮はそれ自体がキレイなものではないとみなされ、捨てられていく。ゴミになっていく。でも私は逆に、その“傷”を“美しい”って思うんです。革の傷はその生き物が生きてきた証。それを美しいって言える社会って素晴らしいのではないか。そんな提案をファッションでやっていこうと考えたのです」
これはマリエが日本を飛び出して学んだ文化が遠回しに影響しているかもしれない。彼女によれば、アメリカは、一度なにかで失敗をした人が、反省し、学び、そこから必死に這い上がっていく人の姿をポジティブに応援する国民性があると言う。これをマリエは決して「許して欲しい」という想いで語っていない。ただそれを「美しい」と思える文化を目指したいだけだ。
一方で日本は一度レールが外れた人が再び同じレールに戻るのは難しい社会だと言われる。これを考えたとき、彼女のブランドの精神やモットーは胸にしみてこないか。
現在、マリエは日本に在住している。とくに住む場所や“芸能人であること”にこだわってはなかったが、J-WAVEでラジオのナビゲーターの仕事が決まり日本へ。「もともとラジオ好きでしたから」と話す。「与えられた仕事は100%の力でやりたい」がモットーの彼女らしい選択だ。
「今はSNSでタレントの発言が大炎上するって日常茶飯事なのかもしれませんが、私のころはあまりなかった。私は“炎上のファーストレディ”なんです(笑)」
そうも自嘲するマリエの表情は、テレビで活躍していたころと比べると非常に穏やかだ。311前からやりたかった自身の進むべき道を“地続き”で歩み続けるマリエ。われわれから見れば、彼女の過去の傷からはどんな“美しさ”が立ち上ってくるのだろう。その今後を見守っていきたい。
(文・構成/衣輪晋一)