父に影響を受けて米国留学
何でもやってみようという好奇心と、類いまれなる行動力。この2つをあわせ持った滝野さん。その性格はどうやら父親譲りのようだ。
外資系ミシンメーカーに勤めていた父親がある日、貿易の仕事を開始。それが会社にばれて退社したのがきっかけで、滝野さんが2歳のときに一家で広島から大阪に転居。父は自分でフィルムを現像する仕事を始めた。
大阪駅近くに3階建てのビルを建てて、1階を暗室に。フィルムを朝の出勤時に預けると、すぐ現像と焼きつけをして、帰りには返却。便利さが受けて繁盛した。
「現像に1週間くらいかかっていた戦前に、即座に返すなんて、誰も思いつかないでしょう。カメラの金属シャッターを発明して表彰されたこともあります。もし、それで特許を取れていたら、大変なお金持ちよ。結局、取れなかったけどね」
自由闊達な父と対照的に、母は厳しく、よく叱られた。6歳上の姉、2歳違いの兄と弟がいたが、滝野さんはあまり話さず、部屋の隅でスネていることが多かったという。
「私は偏食がひどくて、お魚も、お野菜も、豆類もダメ。ガリガリにやせてたし、頑固で、かわいげがなかったんです。そんな私を父だけがベタベタかわいがってくれて、ちっちゃいころは年がら年中、あぐらをかいた父のひざの上に乗っかっていました。父がいなかったら、絶対グレてたと思う。グレるくらいの根性があったから(笑)」
戦争が激しくなり13歳のとき長野に疎開した。大阪の空襲で3階建ての自宅兼仕事場は焼失。終戦の1年後に戻ってまもなく、兵庫県芦屋市に移った。
女学校を卒業し専門学校へ進学したが、途中で短大に切り替わる。短大を出て、関西学院大学文学部に編入した。
「短大2年のとき初めて乗馬をして“私、これやりたい!”と。馬場に関学の学生が練習に来ていたのを見て、そうか、馬に乗りたかったら、関学に入ればいいんだと。ハハハハハ。もう、動機が不純でしょう(笑)」
卒業後には1年間アメリカ・ミシガン州の大学に留学した。きょうだいで滝野さんだけが父にすすめられたのだ。
「普通なら兄に行けと言うんでしょうけど、私は意地が強いからじゃない。“お前が男だったらいいのに”と、しょっちゅう言われましたから」
大型貨客船「氷川丸」で太平洋を渡り、列車で大陸を横断。アメリカの広さと豊かさに圧倒された。寮に入り、アメリカ人の女子学生たちとパジャマパーティーをしたりして、「メチャメチャ楽しかったです」と滝野さん。
日本に帰国して住友金属に入社。同僚の女性たちのおとなしさに、逆にカルチャーショックを受けた。
結婚したのは25歳のとき。相手は社交ダンスをしていて知り合った8歳年上の男性だった。結婚した翌年に長女、29歳で長男を出産。間もなく会社員の夫の転勤で東京に転居した。
それまでの活発さからは、意外なほど平凡な幸せをつかんだようにみえるが、内心は砂をかむような毎日だったと表情を曇らせた。
「夫は年も上だし、父親みたいに頼りになるかと思って結婚したんだけど、あにはからんや……。彼は基本的に自分にしか関心のない人でした」
子どもたちが風邪で寝込んでいても、顔すら見ない。息子がサッカーで骨折したときも、車を出してと頼んだが行ってくれない……。
「ものすごく腹が立ちましたよ。でも、もう2度と頼まない。そう決めて、ひとりで子育てをして、主婦としてやるべきことはキッチリこなしました」