歌手として花開いたのは40歳のとき。遅咲きながら米国ハリウッドでアルバムを制作し、メジャーデビューを果たした。英語が話せない、知り合いもいない、お金もない状態で単身渡米。超一流の音楽プロデューサーに声を見初められ、レコーディングを実現させたのだ。
順風満帆に映る堀澤の半生だが、その道のりは決して平坦なものではなかった。
スイスの公園で知った歌の力
「音大の3年生のとき、歌いすぎで声が出なくなったのがすべてのスタートでした」
声楽科の先生は厳しいことで有名だった。
「怒ると楽譜が飛んでくるような怖い先生。いきなりイタリア歌曲の大曲を歌え、という宿題が出る。必死で練習するうちに力を入れてやりすぎて、気がついたら声が出なくなってしまったのです」
卒業しても歌は続けようと思っていた彼女にとって、それは大きなショックだった。
とにかく声を取り戻さなければならない。小児科医である父に相談すると、自身でも歌を歌い、多くのオペラ歌手の声帯手術をしてきた医師を見つけてきてくれた。
診察した医師は静かにこう告げた。
「ポリープができています。摘出すれば一時的に声が出るようになりますが、同じ歌い方をしていたら、また声が出なくなりますよ」
堀澤にとってそれは、まさに死刑宣告。歌手の生命線ともいえる「声」が2度と出ない恐怖に、目の前が真っ暗になった。
すぐに手術することになったが、ベッドが不足していた関係で小児病棟に入院した。
手術直後は、まったく声を出せない。それでも陽気な堀澤は、子どもたちとホワイトボードを使って筆談で会話し、「声の出ないおねーちゃん」と呼ばれて、慕われていた。
入院して2週間後、退院が決まった日。親しくなった少年がこうつぶやいた。
「おねーちゃん、もう退院しちゃうの? よかったね……。僕は赤ちゃんのころからずっとここなのに」
とっさに返す言葉が見つからなかった。
堀澤は、小5から高2まで所属していた『名古屋少年少女合唱団』のヨーロッパ演奏旅行での出来事を思い出していた。
東西冷戦の時代、スイス・アルプスにあるグリンデルヴァルトという村でのことだ。
「コンサートをやるといっても、誰も日本の歌なんて知らない。そこで、私たちが80人くらいで公園に出かけて歌ったんです。すると、普通に道を歩いていた人たちがぞろぞろと公園に入ってきて、私たちの歌を聴いて拍手してくれる。びっくりしましたね。“言葉が通じなくても音楽で心がつながるんだ”とわかった。すごいカルチャーショックでした。音楽は一瞬で人と人をつなぐことができるんだって……。
戦争の始まりは小さな喧嘩だと思うんです。でも、音楽は人の気分を変える力がある。音楽は“心のくすり”であり、“魔法”なんですね。それが平和の入り口にもつながっていく。そういう思いがあのとき、私のなかに芽生えました」
堀澤の頭にふとこんな考えが浮かんだ。
(もう1度声を取り戻して、あの子に歌を届けに行こう!)