母との口論、父の喝
1982年夏。上野選手は福岡県福岡市で生を受けた。誕生時の体重は3530グラム。ビッグベイビーが、のちの日本ソフトボール界のスーパースターになるとは、その時点では誰も想像していなかった。
上野家は、会社員の父・正通さん(65)、看護師の母・京都さん(63)、2つ年下の妹の4人家族。幼いころから外を駆け回る活発な少女で、書道、ピアノ、水泳などさまざまなことに興味を抱いた。
「仕事より家庭が第一。子どもがやりたいことは何でもバックアップする」という考えの父は、娘の習い事を積極的にサポート。母も夜勤の多い常勤看護師を辞め、非常勤のパート看護師になるなど、子育てを最優先に考えた。
上野選手が小学校3年のときに同級生に誘われてソフトボールを本格的に始めてからは、両親のサポート態勢もより強固になった。とはいえ、何でも好き勝手にさせないのが上野家流。以下のような家訓を課して、人間教育にも力を入れたという。
●「はい」という素直な返事
●「すみません」という謝罪の気持ち
●「私がします」という積極的な行動
●「おかげさまで」という謙虚な気持ち
●「ありがとう」という感謝の気持ち
「ウチの家訓は今も自分の中に焼きついていますけど、特に母の言葉にはハッとさせられることが多いですね。“人の悪口は言わない”“人に好かれる人間になれ”という普通のことなんですけど、自分が生きるうえでの指標になっていると思います」
母は、娘の自立心の強さに驚かされたことがあるという。
「小3くらいのころだったと思います。体育の時間に使った紅白帽の洗濯を私に頼んだのに翌朝、洗濯されていないことに、由岐子と言った言わないで揉めたことがありました。それからは必ずやってほしいことをメモに書いてテーブルに置くようになったんです。本当は私のほうがそうするように教えなければいけなかったのに、何も言わなくても自分で考えて行動していた。そういうところは感心させられましたね」
ソフトボールではメキメキと頭角を現し、小学5年からは男子チームに入ってエースピッチャーに君臨する。
柏原中学校へ進んでからはより一層、存在感を増し、'97年夏の全国中学校大会で優勝した。
その決勝戦では、こんなエピソードが。相手ピッチャーの球をなかなか打てないことに苛立った上野選手は思わずヘルメットをグラウンドに投げつけた。その姿を会場で目の当たりにした父・正通さんから、試合中にもかかわらず「道具に当たるとは何事か!」と一喝された。目が覚めた彼女は次の打席でホームランを放ち、チームを全国制覇へと導いた。
普段は優しいが、ソフトボールになると厳しさを前面に押し出す父から“勝負の懸かったときこそ礼儀正しく振る舞うことの大切さ”を学び、成長したという。