石原裕次郎さんに心酔し、背中を追い続けた

 渡さんはデビュー前、師と仰ぐ裕次郎さんと日活の食堂で初対面した際、思いがけず「頑張ってください」と励ましの言葉をもらい感激。その後は仕事、私生活と面倒見のいい“親分”裕次郎さんに心酔、その背中を追い続けた。

 日活がロマンポルノ路線へ転換した’71年、裕次郎さんが設立していた『石原プロモーション』へ入社。同プロ制作のドラマ『大都会』シリーズや『西部警察』で“角刈りサングラス”の大門部長刑事を演じ、巨悪とのド派手な銃撃戦やカーチェイス、爆破シーンの連続でファンをくぎづけにした。

戦車も用意した’79年『西部警察』の制作発表。右から渡さん、裕次郎さん、舘ひろし
戦車も用意した’79年『西部警察』の制作発表。右から渡さん、裕次郎さん、舘ひろし
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 また歌手としても、’73年に『くちなしの花』が大ヒットを記録。’74年と’93年のNHK紅白歌合戦に出場している。

 華やかなスター街道を突っ走ってきた渡さんだが、病気との付き合いには悩まされ続けた。

 本人も印象に残っていることとして、’74年放送のNHK大河ドラマ『勝海舟』を病気で途中降板したこと、’81年に裕次郎さんが解離性大動脈瘤で130日間入院して生死をさまよったことだと語っているほど、病気との因縁は深かった。

 ’87年7月、裕次郎さんが他界したのを機に、渡さんは石原プロ社長に就任する。

 その後、前述した’91年に患った直腸がんと闘いつつ、’11年まで同社を率いていく。

 寡黙で硬派な渡さんの仕事ぶりを象徴するエピソードがある。

 ’89年、渡さんが社長となって初の石原プロ制作の作品『ゴリラ・警視庁捜査第8班』の撮影中、ヘリから降りて全力疾走するシーンで、ヘリから着地した際、左足に激痛が走ったが「ただの捻挫だろう」と撮影を続行。しかし翌日、病院で診察を受けると、全治1か月半の腓腹筋(ひふくきん)断裂』と診断された。

 このケガが原因で、足をひきずって歩く後遺症が残った。ケガも男の勲章というわけだ。