家族をひとつにするために生まれてきたのかも
本格的に仕事復帰してからの佳恵さんは“仕事ファースト”だ。保育園に入れた当初、空良君に泣かれて「仕事がそれほど大事か」と自問自答したこともあるが、仕事はやめられないと覚悟を決めた。
「お母さんの好きな仕事をさせてくれて、ありがとう!」
こう言って出かけ、笑顔で帰るよう心がけた。
佳恵さんが留守のときは夫が子どもの面倒をみている。稲葉さんは藤沢で美容室を経営しているが、佳恵さんが海外ロケでパプアニューギニアに行ったときは、店を2週間閉めてもらったという。
「初め、主人はヒモだと思われていました。アハハハハ。“いいねー、芸能人のダンナは仕事しないで”って」(佳恵さん)
「こっちは波がよかったら、仕事しないでサーフィンするような人がいっぱいいるし、何の仕事をしているとか誰も気にしないからね」(功次郎さん)
夫婦のやりとりを聞いているだけで、いい風が吹いているのがわかる。
'11年9月に次男の美良生君が誕生。遺伝子検査を受けてダウン症だと告知されたのは11月初めだ。親族や友人など親しい人にはすぐ伝えたが、母の悦美さんには1か月近く言えなかったという。
「母はいつも笑っていて奥山家の太陽なんですよ。そんな母に、この子のことを否定されたら、産んだことを責められたら……。それが怖くて言えなかったんです。私自身、何があっても平気だと受け止めきれていなかったんでしょうね」
夫に急かされて母に電話で伝えると、返ってきたのは予想外な反応だった。
「そんなことより、あなたは食べているの?」
娘を気遣う言葉に、佳恵さんは電話口で大泣きした。
悦美さんに聞くと、出産後まもなく美良生君に会いに行ったとき「ダウン症ではないか」と感じたそうだ。
「ニコニコっと笑った顔がダウンちゃんの顔だったんです。ビックリしてね。“なんで?”と帰りの電車の中でずーっと考えたんです。
ちょうど佳恵も功ちゃんも仕事が波に乗ってきて、空良にも手がかからなくなった時期で、バラバラになりかけている家族をギューッと、ひとつにするために、この子は生まれてきたんじゃないか。そう考えたら美良生が愛おしくなって。私の中では受け入れる準備はできていたけど、佳恵が言うまで待とうと思っていたんですよ」
美良生君はよく寝る育てやすい子どもだった。ダウン症の特性でゆっくり成長し、ハイハイをしたのは1歳半、歩きだしたのは3歳を過ぎてからだ。支援型の幼稚園を卒園し、小学校は特別支援学級に進む予定だったが、あえて違う道を選んだ。
きっかけになったのは、入学前年の'16年7月に起きた相模原障がい者施設殺傷事件だ。世間に衝撃を与えた事件後、佳恵さんも障がい者の親として関連の仕事に呼ばれる機会が増えた。
ある催しで、酸素吸入器や胃ろうをつけて車いすで生活する女性と知り合った。自宅に招かれ、胃からお酒を飲む姿に衝撃を受けた。重度障がいがあるのに、女性はずっと普通学級に通ったと聞いて、さらに驚いた。
「人は地域の中で育っていくから。その人を知ることで障がいが見えなくなる」
そう話す女性に深く共感し、障がい者と健常者がともに学ぶインクルーシブ教育に興味を持った。
だが、夫の意見は違った。
「本人に合ったクラスで、美良生専用のプログラムで育ったほうが、能力を伸ばせるんじゃないか」
夫婦で何度も話し合った末に、普通学級を選んだ。藤沢市でもインクルーシブ教育を推進する動きが始まり、タイミングもよかった。