ダンプさんに聞いた話で妙に心に残ったのが、全女の松永高司社長(当時)の観察眼と鑑別法だ。

「試合や練習で、それまで平気でガバッと足を開いていた子が、変に恥じらって股を閉じるようになる。それを見ると、あっ、こいつ男を知ったな、とわかった」

 ちょっと考えてみれば、逆のような気もするのだが。全女の社長のいうことなのだから、そっちが正しいのだろう。

「でも、いじめたやつもひどいけど、すぐ逃げた子が“私は元・全日本女子プロレスにいた”というのはちょっと許せないな」

 そんなくすぶっていたダンプさんが、押しも押されもせぬダンプ松本になるのは、1982年の冬だ。デビル雅美率いる、デビル軍団の一員となったのだ。

長与千種を血まみれにした
伝説の髪切りマッチ

 そこから、ヒールと呼ばれる悪役に徹する強烈なプロレス人生が始まる。しかし、脇目もふらずの暴走ではなく、まだダンプさんにも迷いや悩みはあった。

「弱気なところもあって、マミ熊野さんとデビルさんが仲間割れなんか始めると、止めることもできず、ただおろおろするばかりだったり」

 そうこうするうちに、宿命のライバルである長与千種も脱皮を始めていた。翌年の8月、劇的にライオネス飛鳥とクラッシュ・ギャルズを結成。

 8月にジャンボ堀、大森ゆかりのダイナマイト・ギャルズと激闘を繰り広げ、そこで大きく弾けた。あっという間に、クラッシュ・ギャルズは大ブレイク。かつてのビューティ・ペアのようにリングで歌い踊り、大きな会場を連日満杯にした。

 負けじとダンプさんも、1983年3月にクレーン・ユウさんと「極悪同盟」を結成。デビル軍団の一員から、極悪同盟を率いる首領になり、ダンプ松本も弾ける。

「1985年8月の、大阪城ホール、伝説の髪切りマッチ。あれで千種を血まみれの丸刈りにしたときは、試合後にうちらのバスを500人以上の殺気に満ちたクラッシュファンが、殺してやるーっと取り囲んだんですよ」

 その試合、覚えている。今もYouTubeで、ものすごい再生回数だ。

「がっしゃがっしゃバスを揺すりながら、ダンプ出てこい! 殺す! なんて罵声を浴びせられたら、さすがに怖かったですよ」

 負けっぷりがいいとダンプ松本にほめられる長与千種は、確かにその負け方でファンを燃え立たせた。

「それより頭にきたのは、リングを降りて楽屋に向かう途中、暴れようとするファンを抑える役目の警備員がどさくさにまぎれて私を殴ったんですよ」

 そりゃないわと憤慨するし、職務上も普通の男としても許されないことではあるが、警備員まで本気にさせた凄まじい試合、といっていいかもしれない。

 実際、あのころの女子プロレスは日本を巻き込んでいた。資料によれば、1985年には関東地方でテレビ中継が月曜の夜、土曜と日曜が隔週で夕方から放送されていた。視聴率も、20%超えだったという。今、こんなスポーツがあるか。

 さらに年間300を超える試合が各地で催され、日本中どこでも超満員だったというのだ。いま現在も女子プロレスは根強い人気を保ち、続々と魅力的な新人も誕生しているが、もはやマニアのものであるのは否めない。