“女子大生モーニングコール”を起業
「利江さんの学年はセッター以外、全員が高校からの初心者。最も統率力と身長がある彼女にキャプテンかつエースとして頑張ってもらおうと思って、練習もハードにやりましたね。ほかの選手は、私と利江さんと、監督が2人いるような気がしたんじゃないですかね(笑)。
ハードな練習を心配された中村さんのお母さんが、ほかの保護者とともに練習の見学に来られたこともありました。でも、意欲とリーダーシップを持って取り組んでいる彼女を見て、納得されたようでしたよ」(大塚先生)
大塚先生には人生や勝負の駆け引きを教わった、と中村さんは振り返る。
「“プロボクサーが試合前に大口を叩くのは注目度を上げてモチベーションを高めるため。自分からしかけなかったらすぐ負ける”という、千代先生の話は今も頭に焼きついています。人生も同じで自らアクションを起こさなければいけないと感じました」
そうした恩師の教えは関西大学に入ってから、おおいに生かされるようになる。
厳しく管理されていた実家を離れ、自由な暮らしを手に入れた学生は「遊びたい」と思うのが普通だろう。けれども彼女は「ビジネスがしたい」と、即座に実行に移す。仲間3人と「出資者を募って100万円集めて何かやろう」と話し合い、モーニングコール事業を立ち上げたのだ。
「遅刻常習者だった男子学生が“かわいい女子大生に起こされたら起きるのに”とボヤいていたのを聞いて、ひらめいたんです」
行動派の中村さんは、さっそく「いいアルバイトがあったら紹介する」と女子学生に声をかけ、瞬く間に3000人をかき集めた。それと同時に、大阪のオフィス街である淀屋橋や本町へ出て、テニスのスコート姿でビラ配りを実施。興味を持ったサラリーマンが月3000~5000円のモーニングコール・サービスに次々と登録してくれた。
この事業が話題になり、テレビ局やイベント会社から女子学生の派遣要請が舞い込み始めるように。すると、モーニングコール事業より収益率が高くなった。今でいう「人材派遣業」を、中村さんは20歳になる前に形にしてしまったのである。
大学1~2回生で人材派遣ビジネスをひと通りやり切り3回生になった彼女は、リクルート大阪本社が発行していた雑誌『ハウジング』編集部でアルバイトを始めた。原稿の受け渡し(トラフィック)など補助業務が仕事の中心だったが、20歳そこそこの中村さんは物怖(ものお)じせず自分の意見を次々と出し、企画や編集、校正に関わり始めたのだ。
当時の上司である隈本秀夫さんは、圧倒的なインパクトを受けたと明かす。
「最初はトラフィックのバイトさんと思っていたら、編集方針やデザインに注文をつけたり、自ら企画案やコピーを書いてきたりするんです。仕事への積極的な姿勢は尋常じゃなかったですね。それに大学生の彼女の言っていることのほうが的を射ていた。社員全員が舌を巻いていました。ずぬけて優秀だったので、僕のほうから“(就職は)リクルートに来い”と誘ったくらいです」