当時は「妊娠したら、退社する」のが一般的
'89年4月には念願の大阪へ異動。一段とたくましくなった彼女に、前出・隈本さんは目を見張った。
「東京でやっていた仕事のノウハウを大阪で伝えるべく、勉強会を開いてもらったことがあったんです。そのときに感じたのは、視点の違い。ユーザーが何を求め、何を必要としているかを徹底調査し、斬新なアイデアをいくつも形にしていた。相手の会社にしてみればマーケティングをしてもらっているのと同じですから、それなら提案を受け入れますよね。あの頭のよさに感心するばかりでした」
ところが、若き営業のエースは半年もしないうちに退職を申し出る。結婚後、数か月して妊娠がわかったからだ。
当時の女性は「妊娠したら、退社する」のが一般的。それに中村さんも抗(あらが)おうとはしなかった。隈本さんら会社側は「抜けられると困る」と思ったが、女性社員の結婚・出産への対応が配慮された時代でもなかった。そのため彼女は、「キッパリやめて、家事や子育てに専念したほうがいい」と考えたのだ。
退職後の'90年7月、中村さんは25歳で男の子を出産する。母親としての新たな人生が始まった。
「ワンオペ育児」を貫いた理由
産後しばらくは高岡の実家に戻っていた彼女だが、半年もたたないうちに家事と子育てだけの生活に飽き足らず、仕事への渇望を感じ始めた。そこで大阪に戻って、インテリアコーディネーターの資格を取得。空いた時間に働くようになる。それだけでは満足せず、古巣・リクルートで住宅情報などのライター業に携わることもあった。
それでも息子が保育園に上がるまでは「家庭第一」のスタンスを貫いた。その中で気づいたことも少なくなかったという。
「子育てをすると人生をもう1度、ゼロから楽しめますよね。子どもと『おかあさんといっしょ』を見たり、遊園地のイベントキャラクターを身近に感じたりすることは、キャリアウーマンにはできない経験だから。“こういうビジネスもあるんだ”と、いろいろ観察する日々でした」
ビジネス志向の高い妻を大学時代から付き合ってきた夫はよくわかっていたが、「僕が子育てを手伝うから働きに行っていいよ」とは言わなかった。高度成長期に育った昭和生まれの男性は「家事と育児は女性の役割」と考えるのが一般的だったからだ。中村家は今でいう「ワンオペ育児」だったが、彼女は一切、文句を言わなかった。
「夫に“手伝ってよ”と言えば、“だったら俺の給料で食べさせるから仕事はやらなくていい”と言われるのがオチ(苦笑)。それがわかっていたので、仕事に関する話題は出さず、家族旅行や息子の成長など楽しい話をするようにしていました。息子が4~5歳のころに行ったネパール旅行は楽しかったですね」
その後も夫に多くを求めないスタンスは変わらなかった。主婦業の合間にデパ地下などを回って「中食の時代が来る」と直感した中村さんは、'98年1月、「ほっかほっか亭」の運営会社・ハークスレイに入社する。それまではフリーとして働いていたが、ひとり息子の小学校入学を機に正社員として勤め出し、半年後には営業企画の課長に昇進。最終的には部下70人を率いる責任者となった。
多忙を極める中、ありとあらゆる手段を使って、家庭と仕事の両立を全力で試みた。