当時は“働く母親”にまだまだ厳しかった

「私も主人も親が近くにいなくて頼れなかったので、息子が保育園のころは19時まで延長保育、小学校に入ってからは学童などに預け、それでも帰れないときはベビーシッターや近所の子守りの方にお願いしていました。どうしても預かり手が見つからないときは、おぶって会社に連れていくこともありました

 今でこそ男性社員も働く母親に寛容ですが、当時はまだまだ厳しかった“なんだ、子連れなのか”と皮肉めいたことを言う人もいましたね

 そこで皮肉をサラリと受け流せるのが中村さんの強さ。前出・山本さんも、親友の立場から「どんなときも“必死感”を見せないのが利江ちゃんなんです」と話す。

親友の山本さん(右)によれば、中村さんは「すべてが倍速」 撮影/渡邉智裕
親友の山本さん(右)によれば、中村さんは「すべてが倍速」 撮影/渡邉智裕
【写真】初めてのビジネス『女子大生モーニングコール』を企業した時の中村さん(当時大学生)

カーッとなったりヒステリックにモノを言うのは見たことがないですね時間をムダにするより、ひとつひとつの物事を効率的にこなすことが第一だったんだと思います

 息子さんの授業参観や運動会にも時間をやりくりして行っていましたし、ママさんバレーにも参加していましたからね。本人は“そのぶん、あとから仕事をすればいい”と詰め込んでいたんでしょうけど、ホントにすべてが普通の人の倍速()。お母さんも、仕事も、全部やりたかったんだと思います」

 まさにスーパーウーマンだが、素顔の中村さんは鎧(よろい)を身にまとった人ではない。人を楽しませるのが大好きで、リクルート時代に企画した泊まりがけの研修では、どっきりイベントを開いて盛り上げた。

 山本さんら仲間と宮古島の別荘に出かける際には、ツアーコンダクターのようにイベントを組み、得意料理でにぎやかにおもてなしをしてくれるという。出前館のスタッフも「何かあると、会長がおにぎりやおかずを作って持ってきてくれます」と話す。

オフには仲間を招いて宮古島へ(右から2人目が中村さん) 撮影/渡邉智裕
オフには仲間を招いて宮古島へ(右から2人目が中村さん) 撮影/渡邉智裕

 初対面の筆者にも取材直後、手書きの礼状を送ってくれた。温かい人柄が人々を惹きつけて離さないのだろう。

日ごろは口を出さない夫も猛反対

 仕事はもちろん、家事・育児にも全力で取り組む中村さんに2001年7月、新たな転機が訪れる。

ウチの会社の再建を手伝ってくれないか

 出前館のサービスを立ち上げた『夢の街創造委員会』('19年12月から出前館に社名変更)の創業者・花蜜伸行さんから、そう打診を受けたのだ。ハークスレイを退社して、自身のプランニング会社を立ち上げたばかりのころだった。

出前館」の立て直しは、取締役就任という責任の重い仕事だった。

 しかも当時は社内が混乱状態で、給料遅配のおそれがあるほど経営的苦境に立たされていた。この仕事を引き受けるとなれば、彼女自身の給料は最低限に設定しなければ採算がとれない。

 ほかの案件を引き受けたほうが稼げるのは自明の理。日ごろは仕事に口を出さない夫も「絶対にやめたほうがいい」と、猛反対した。