やんちゃで有名だった子ども時代
一方、「数理」は、栄光学園での数学の授業に近い内容だ。井本さんが時間をかけて用意した問題を生徒たちに提示する。短パンにサンダルばきの井本さんは、最初に謎なぞのような論理クイズを出して緊張ぎみの子どもたちをほぐし、子どもたちをあだ名や下の名前で呼ぶ。みんなに渡したプリントには9つの点が書かれていた。
「この9つの点のうち、4つの点を通る円をすべて書いてください。同じ半径の円は同じ種類と考えます」
授業ではたった1問だけしか問題を出さないこともある。あとは生徒が各自で考え、友達と相談して一緒にアイデアを出し合う。生徒がウロウロと教室を歩き回ることも、黒板を使って解くこともある。生徒たちはパズルやゲームにチャレンジするように「これ、いけそうだな!」「あ、違ったか」「こうしてみたらどうかな?」と声をあげ、前のめりに取り組む。問題を必死に考える生徒たちは真剣だ。
エリートから、学習環境が整わない子どもたち、発達障害や不登校など学校での居場所がない子どもたちまで、幅広い子どもたちと過ごすことが井本さんにとっての喜びだ。
神奈川県で3人きょうだいの末っ子として生まれた井本さんの子ども時代は、まさに昭和のやんちゃ坊主だ。6つ上の姉・詠子さん、3つ上の兄・温也(あつなり)さん、両親。祖父母も近くに住んでいた。
姉の詠子さんは当時をよく覚えている。
「陽久は近所でも有名なくらいハチャメチャで、私も思春期のときは恥ずかしかったな。雨上がりには裸になって外に飛び出して、家の前の水たまりでチャプチャプ遊んでると思ったら、そのまま行方不明。ファミレスに行けば店じゅうの椅子の上を渡り歩いて大騒ぎ。それはもう大変でした。でも、わが家は比較的のびのびしていて、近所の人も温かく見守ってくれていましたね」
井本さん自身も子どものころの自分をこう振り返る。
「エネルギーがあり余ってたんです。考える前に動いちゃう。それでも全然怒られなかったし、愛されていることを疑うことさえなかった。とても恵まれていたと思います。
いちばんひどかったのは3、4年生のころ。先生にダメって言われることは全部やってました。人をびっくりさせたい、盛り上げたい、笑わせたいっていう気持ちが抑えられなくて(笑)」
宿題は一切やらない。忘れ物も多い。忘れ物をすると印をつける用紙が貼り出されていたが、忘れ物が多すぎて井本さんのところだけ枠が足りなくなり、紙をつけ足されるほどだった。それさえも人と違うことは喜びだった。立ちションをしてどこまで飛ばせるかを競ったこともある。