中2のころ、教師になると思った
「公園で友達と遊んでいたら、その子のお母さんが来て、ハルちゃんと遊んじゃダメでしょ、って連れて帰っちゃうことも。学校にも苦情がたくさん来てたみたいですね。母親が授業参観で学校に来ると、仲よかったお母さんに知らん顔されたって言ってました」
人をいじめることはなく、友達が笑って喜ぶことを率先してやっていただけだが、家に苦情の電話がかかってくるたび、母と一緒に謝りに行くのが日課のようなものだった。
「勉強しろって言われたことは1度もないんです。世間とか常識とか、そういうこともあんまり言われたことがない。うちはみんな自由な家系なんですね」
そんな状態から中学受験に向かったきっかけは、いちばん仲がよかった友達と遊べなくなったことだった。
「理由を聞いたら受験をするから塾に通い始めたって言うんです。僕は野球に夢中だったんだけど、塾の日と重なっていたから“野球やめる!”って宣言しました。家族はみんな驚いていましたね」
たまたま通い始めた個人塾の先生は破天荒で、塾長の人柄や勉強の面白さにのめり込み、エネルギーがすべて勉強に向くと、問題行動はピタッとなくなった。
「僕みたいな子どもでも親が面白がって自由にさせてくれたこと、あんなに好きだった野球をパタッとやめ塾に行き始めたこと、よくわからないまま入った栄光学園が自由な学校だったこと、そういうことすべてが僕にとってはすごい縁だし、何か意味があるんじゃないかと思うんです。あのときのやんちゃな僕がいたから今があると思います」
栄光学園は井本さんにとってかけがえのないホームとなった。中学1年生から、大学の4年間を除くすべてを、井本さんは生徒として教員として栄光学園で過ごしてきた。栄光学園の自由な校風も井本さんにフィットしたという。なかでも、校長が言ったこの言葉は今でも忘れない。
「人に迷惑をかけるなとよく言うけど、そんなことは思うな。100人のうち100人が違うと言っても、自分がそうだと思ったら人に迷惑をかけてでもそれをやり抜きなさい。そのかわり、人が自分に迷惑をかけてもそれを認めなさい」
ダメと言われるとやりたくなる井本さんにとっては、ベストな学校だった。
井本さんは中学に入っても、学校帰りの電車に迷い込んできた蝶々を見つけると車両の端から端まで追いかけるなど幼さは抜けなかったが、中学2年のころには、「栄光学園で数学教師になる」とすでに思っていたという。「なりたい」や「なるぞ」という強い意気込みではなく、きっと自然な流れでなるものだと思っていた。
「僕ね、不思議と何かの節目に、急に言葉が降りてくるような感覚があるんです。野球をやめると言ったときも自分でびっくりしたし、中学のときも、校舎の外階段を上がっているときに、『よし、勉強するぞ』って、ボッていう音が聞こえるくらい一瞬で発火したような感覚になったんですよ。そこから高3の受験が終わるまで毎日すごく勉強しました」
もともと好きだった数学は、中学1年生の最初のテストで60点だったが、定期試験のたびにテスト問題を自分で作って楽しみながら勉強した。2学期は66点、72点、3学期は84点、100点とどんどん上昇。
一方、数学以外の教科は、すべていい成績をとることを目指して効率よく勉強した。