生に喜びを感じている子どもたち
「密着してたテレビ局の人たちは、物心ついたころからしょっちゅう会ってたんで、親戚のおじさん、近所のおばさんみたいなもんでした」
「そう、変だなと思わなかったんです。カメラが回るのも、日常だったから」
取材にうかがったとき、ダディの店には最初の奥さんとの間に生まれた長男の新志さん、四男の源志さん、次女の柔美さん、四女の都美さんがいた。
そして、お嬢さんたちの産んだ小さな子が三人。ダディの孫だ。とにかくダディの血を受け継ぐ子どもに孫、みんな真の育ちのよさというものを見せつけてくれたのだ。
この、真の育ちのよさの定義は難しい。人によって、あるいは時代や場所によっても違うし、これがそれだと決めつけてしまえば、そこからはみ出した人を育ちが悪いといってしまうことにもなりかねない。だから、具体的には書かない。
ただ彼らは、この世に生まれてきたことに喜びを感じている。誰かを幸せにしようとしている。それがこちらにも、素朴に満々に伝わってくる。それだけだ。
若い男というだけでなんか気に入らない
「結婚相手は、ダディにビビったりしなかったの」
いささか特異な親と境遇に生まれ育ったことについて、ずばり聞いてみたら。二人の可愛い、しかし、しっかりと母親になっているお嬢さんたちは、はにかみながらもすべて快活に答えてくれた。ひざで、腕で、幼い子どもをあやし、世話をしながら。
「放映中は私らみんな子どもだったし、旦那は元の同級生だし、すごく特別視されるってこともなかったんですよ」
「清志さんは、よその子たちにまで厳しいわけではないんで」
この姉妹はとても仲よしで、しょっちゅう会っているから、その子どもたちも従兄弟というより兄弟みたいに育っているようだ。
そこで、ダディがぼそっと口をはさむ。
「だいたいね、俺らから見たら、娘の相手でなくっても、若い男というだけでなんか気に入らない、だめだこりゃ、と思いたいもんでしょ」
このあたり、ダディの普通さが見て取れる。いやほんと、そういうもんです。
「自分が若造だったころは、若いってだけでオヤジどもに何をいっても生意気、口だけ立派、みたいにいわれるじゃないですか。今は、俺がオヤジ側に回ってるだけ」
自分が若いということが嫌で、とにかく早く五十歳を越えたかったというダディ。無事に五十を越えれば、子どもたちもなんとか成人してひとり立ちできるだろう、そうなれば自分も人生の区切りをクリアした、となると考えていたそうだ。
ちなみに私にも前夫との間にできた息子がいて、次男の熱志くんと同学年だ。私もついつい若いというだけで、息子がいいこといっても未熟で生意気と決めつけてしまう。
自身を振り返ってみれば、若さをそれだけで価値あるもの、それだけで売り物になると考えたことはないものの、未熟なまま年だけをとるのは怖かった。ダディは若いうちから、自分に自信というか、確たる自分があったのだ。
「俺、今もどの子と腕相撲しても、勝つ自信ありますよ」
つくづくダディって、「昔ワルかった」だの「若いときはすごかった」みたいな、おっさん的な自慢をしない。彼が語るのは、確固たる自信だけだ。