依存症の母と離れ、父娘で入院
30代になるころには、医師の仕事の傍ら、週刊誌の連載エッセイを皮切りに、メディアの仕事も始めた。
数年がたち、自分が思い描く人生が回り始めていた。その矢先だった。
「ママが暴力をふるうようになった」と父親からSOSが入った。
その日、おおたわさん父娘は、群馬県赤城高原にある依存症の医療施設に向かっていた。母親を見舞うため? いや、父娘が入院するためだった。
父親からSОSを受けたおおたわさんは、当時数少ない依存症の専門医を探し出し、母親のことを打ち明けた。
そこで、医師から告げられたのが、「家族の入院」の必要性だった。
「最初は、なぜ? と驚きましたが、長年、依存症に巻き込まれている私たち家族も、すでに病的な状態になっていると聞き、納得しました。そのころ母は、日に4回も5回も注射を打っていて、父が止めると殴りかかるほど暴力的になっていました。
父は四六時中、気が休まる間もないし、私も絶えず切羽詰まった状態にいた。私たちがまず、自分を取り戻す必要があったんです」
入院後は、自然に囲まれた環境で、毎日、家族ミーティングに参加。薬物、アルコール、ギャンブル、摂食障害など、さまざまな依存症患者の家族と情報交換をした。
「成功体験を参考にしたり、失敗談を聞いて、『うちもそうだ』と共感したり。いろいろなご家族と話をして、苦しんでいるのは私たちだけじゃないと思えたことが何よりの収穫でしたね」
2週間余りの入院生活を終えて帰宅後は、医師の指示に従って、『支え手』にならない環境づくりに取り組んだ。
「アルコール依存症の家族が、暴れる患者を持て余し、酒を買い与えてしまうように、わが家でも、薬の供給を断ち切れなかった。やめさせたいはずの家族が、結果として供給源になり、『支え手』になっていたわけです。この負の連鎖を断ち切らなくてはと」
父親は関係薬剤の仕入れを一切中止した。オピオイドが治療に必要な患者は、仲間の医師に事情を話し、すべて引き継ぐ徹底ぶりだった。
これが功を奏した。
「母は察していたんですね。薬の仕入れをやめると告げても、黙っていたそうです。しばらく昏々(こんこん)と眠り続け、街の薬局や病院をハシゴして、同じ薬は手に入らないと悟ってからは、あきらめたように薬を求めなくなりました」
こうして、25年以上に及ぶ薬物依存から母親が抜け出したころ、新たな悲しみが、おおたわさんを襲った。
戦友とも呼べる父親が、病に倒れたのだ。
「肝臓がんでした。今にして思えば、肝臓がウイルスに侵されていく中、残る力を振り絞って母の依存症と闘ってくれたんですね。2年ほど闘病して、76歳で旅立ちました」
長年、地域医療に貢献した父親の葬儀には多くの人が参列し、別れを惜しんだ。
しかし、そこに喪主である母親の姿はなかった。
おおたわさんが、ため息まじりに言う。
「テレビショッピングをするためです。母親の依存の対象は、薬物から買い物に移っていました」
2003年、おおたわさんは40歳を目前にしていた。