念願の居酒屋開業、夫の介護も献身的に続けた
モチベーションはさらに高まり、東日本大震災から日が浅い'11年3月22日、契約に踏み切った。そして109時代の信頼できるスタッフに声をかけ、旧知のデザイナーに内装を依頼。大好きな空と木から「そらき」と命名し5月22日に、ついにオープンにこぎつけた。
「おひとり様でも心を尽くそうと誠実な接客を心がけたところ、少しずつ常連さんが増えていきました。そして大きかったのが青学の友達です。私の友達や兄のラグビー仲間が口コミやSNSを通して宣伝してくれて、開店1年を迎えるころには20席が連日予約でいっぱいという、ありがたい状態になりました」
1年足らずで1日の平均売り上げは11万~12万円と当初予測の倍に達した。そんなとき、隣の店舗が空いた。これは2軒目を出すしかないと思い立ち、再び事業計画書を準備し、資金を調達。
新店舗はワインバルをイメージした洋風居酒屋の建てつけにして「SORAKI-T」と命名。これまでなかったピザやタパスも加え、幅広い客層を受け入れられるようにした。同時に、当時まだ珍しかったスマホオーダーのシステムも導入。店員の注文ミスを減らし、スムーズな会計も可能になった。
「これはイケる」と感じたら迷わず突き進むのが藤崎流。それは、息子である剛暉さんも認める点だ。
「僕は本気で目指していたプロ野球選手を断念し、'16年に母の居酒屋でバイトをしていたことがあるんです。社長兼料理人の母を間近で見ていたら、料理しながら、隙あらばお客さんのところに行き、会話をして場をなごませる。実に効率的でムダのない働き方をしていることに気づきました。家でもチャキチャキした人ですが、時間を最大限有効活用できるいいリーダーだなと感心しましたね」
藤崎さんにしてみれば、必要に迫られての船出だったが、得意な料理にフォーカスし、それを商売にすべく必死に取り組んだ結果の成功だった。「私みたいに37歳まで主婦だった人間でも強みを突き詰めて仕事にできたんですから、世の中の奥さんたちも十分やれるはずです」と、藤崎さんはエールを送る。
その一方、夫の介護も献身的に続けた。居酒屋の仕事は帰宅が深夜になるが、朝6時には起きて夫の食事を作り、リハビリや通院にも付き添った。高見さんは「たまに会うと本当に疲れているように見えました」と心配したが、本人は労を惜しまず働いた。
そして6年という時間が流れ、迎えた'16年12月。長期療養中だった夫が急逝してしまう。数日間発熱が続き、入院した途端に心臓が止まるという予期せぬ最期だった。
「それまでも心筋梗塞3回、脳梗塞1回と大病を乗り越えてきていたので、何があっても大丈夫だろうと思っていました。まさか風邪で逝ってしまうとは……。
先生が心臓マッサージをしてくれたんですが、息子が“これを続けて生き返りますか”と尋ねたら“可能性はありません”と。次の瞬間、自分から“もう結構です”と言っていました。涙があふれてきて、本当に喪失感が大きかったですね」
4年前の出来事にもかかわらず、昨日のことのように涙をこぼす藤崎さん。それだけ夫への愛情と尊敬、信頼が大きかったのだろう。