今年デビュー30周年を迎えた福山雅治が、6年8か月ぶりにオリジナルアルバムをリリース。タイトル『AKIRA』は17歳のときに亡くした父親の名前だ。その理由とは、父への思い、初めて明かした胸中――。
父の闘病生活が表現欲求の原点
「“AKIRA”という名前のアルバムを出せたらいいなという構想自体は、3~4年くらい前からあったんです。“AKIRA”ってアルファベットで書くと、僕のなかでは匿名性があるんですよね。世界的に有名なアニメもありますし、抽象的で記号っぽいというか。それで“AKIRA”というタイトルはアルバム作品としてもありだなと思っていました」
その温めてきたタイトルを今回のアルバムにつけたきっかけは、自身の年齢が父親の他界した年齢に近づいてきたことが大きかったという。「自分のソングライティングや何かを表現したいという原点のひとつには、17歳のころに見た父親の闘病生活の1年にあった」と、振り返る。
「父親はがんで1年間、闘病していました。当時は今のように緩和ケアでがんとともに生きるQOL(クオリティー・オブ・ライフ)なんていう考え方は、ほぼなかったんじゃないかな。なので、放射線を当て、身体にメスを入れ、抗がん剤を飲み……ありとあらゆる積極治療をしていた1年でした。
母親は、高校生だった僕と兄貴のために朝飯を作り、仕事に出かけ、夕方いったん家に戻ってきて晩飯を作って、夜は病院に泊まりがけで父親の付き添いをするという、非常に過酷な時間を過ごしていました。なんとか生きたい、病に打ち勝ちたいという思いで積極治療をしていたんでしょうけど、みるみるやせ細ってゆく。父親もまだ50代前半で、母親も40代と若かったので、可能性にかけていたんでしょうね。
ただ、近くで見ている僕としては、どちらも消耗していっているのがわかるから“いや、もうこれ以上はやめてほしい”と思ってた。でも、治療をやめてくれとも当然言えないですし。そのわりには、学校に行ってまじめに勉強するかっていったら、やっぱりまだ子どもだからまじめに勉強しない。校則で禁止されているバイクの免許を取ったのが学校にバレて、母親が学校に呼び出されちゃったりして。なんか最悪なわけですよ(笑)。本当に、母親にとってみたら過酷な日々だったと思うんですよね」
その後、父親が亡くなり、母親を安心させるために地元・長崎の会社に就職した。
「一応、就職はしましたけど“母親を安心させるため”という動機だけで働いていると、(自分自身を)やっぱり納得させきれないわけですよね。ここにいてもこれ以上の変化はないし、母親のためだけに生きていくっていうのは、なんか違うという思いで、音楽をやりたくて上京しました。
父親の死をきっかけに自分の精神に起こった感情、親戚縁者との関係、お金のこと……いろいろなことが起こったので、とにかくこの状況から、この家から、この街から逃げ出したいっていうのがありました。
僕も家族も、とにかくあの1年がすごくしんどかった。そのときの苦しさから解放されるために、音楽に没頭したことが、自分がシンガー・ソングライターとして表現をしたいという動機のひとつになっているんだなと、改めて思います。
そのすごく精神的にダメージを受けた体験を、何かしら作品という形に昇華させないと、苦しいだけの記憶のまま抱えて生きていくことになってしまう。おそらくそういうことを本能的にわかっていたんでしょうね。これは作品を作ってアウトプットしないと生涯、精神的にしんどいままだって感じてました」