日本にマギーズが絶対に必要な理由
その後、吉川さんは秋山さんのもとで在宅看護の手伝いを始めた。
「秋山さんは、末期がんの患者さんを、大事な人のお葬式へ連れていったことがあるんです」
両脇にペットボトルをあて、熱を冷ましながら患者に同行し、悔いが残らないよう望みを叶えた。「今なら、この患者さんにはできる」という、看護師としての見極めに吉川さんは感嘆した。
「すごい人なのに、“私は地域のおばさんでありたい”って秋山さんは言う。私もそうありたいなと思うんです」(吉川さん)
'15年には東京・四谷に、訪問看護や介護サービスの拠点『坂町ミモザの家』をオープン。母親と叔母を在宅で看取った利用者さんから、「1階と2階を使ってください」と申し出のあった家だ。
このミモザの家も、やはり浦口さんが設計した。ショートステイ機能のある施設として、現在、前出の看護師・秦さんが管理者を務め、地域の人々にとって重要な役割を果たしている。
「ミモザの家は、体調を整えるために利用する方もいれば、在宅中心で過ごしてきた方が、集団に慣れてホームに入る練習に利用することもあります。どの施設も、ご縁が向こうからやってきて“じゃあ、やりましょう”という感じなんです」(秋山さん)
そして秋山さんは、もうひとつの大きな出会いを果たす。マギーズへ熱い思いを抱く人物が現れたのだ。当時、日本テレビで記者として働いていた鈴木美穂さんだった。
'08年、24歳のときに乳がんを患った鈴木さんは、8か月の闘病生活を経て職場復帰した。記者としてがんに関する情報を発信しながら、若者のがん患者団体を立ち上げ、'14年にイギリスの「マギーズセンター」のことを知る。鈴木さんは、がんを経験した当事者として、「この施設は日本にも絶対に必要だ」と強く感じたという。
「“マギーズセンター”でネット検索をかけると、日本語では4件しかヒットしなくて、そのすべてに“秋山正子”の文字があったんです。キーパーソンは、この方だ! と思い連絡先を調べ、思い切って電話をかけてみたんです」(鈴木さん)
記者としてのフットワークの軽さを生かし、鈴木さんは「暮らしの保健室」で秋山さんと対面する。
「さすがは傾聴のプロで、秋山さんは私のやりたいことを2時間くらい、ひたすら聞いてくださったんです。初対面なのに、“何が課題で日本にマギーズができていないんですか?”なんて質問もして。
そうしたら、土地、広報、お金など、課題を教えてくれました。その部分は私が何かできるかもしれない、とピンときたんです。“一緒にやりませんか”と、その日に伝えました(笑)」
鈴木さんの友人の伝手(つて)で、東京の豊洲エリアにあった有休地を有効活用する企画の募集を知り、破格の条件で土地を貸してもらえることに。そして、インターネット上で資金を募るクラウドファンディングを開始。積極的に広報活動をした結果、目標額の700万円を超えて最終的には2200万円を調達できた。
現在のマギーズ東京の建築物、家財は、寄付で賄われているものが多い。2棟の建物が、中庭を挟んで一対になるように、全体の監修をボランティアで請け負ってくれる建築家に依頼した。テーブル、ランプシェードも寄贈によるものだ。
多くの人たちの思いがつまったマギーズ東京。現在までに、がんと生きる約2万4000人もの当事者、その家族らが、この場所を訪れている。
「秋山さんは、誰に対しても変わらない。行動に伴う実績をお持ちなのに、それをひけらかさないんです」
と、鈴木さん。前出の浦口さんは「温かくて人間味があるのに、リアリスト。看護師として必要なものだよね」と、秋山さんを語る。
'19年、秋山さんは赤十字国際委員会から、第47回フローレンス・ナイチンゲール記章を受章した。マギーズ東京を維持するために、著書を記したり、講演活動を行ったり、忙しい日々だ。
「あなたなりのペースで、ゆっくりと進んでいきましょう」
そんな秋山さんのひと言で、がんという困難に立ち向かう多くの人たちが、今日も「自分らしさ」を取り戻している。
取材・文/吉田千亜(よしだ・ちあ) フリーライター。1977年生まれ。福島第一原発事故で引き起こされたさまざまな問題や、その被害者を精力的に取材している。『孤塁 双葉郡消防士たちの3・11』(岩波書店)で講談社ノンフィクション賞を受賞