櫻井翔は嵐きっての知性派だ。慶應義塾大学の幼稚舎に通い、'00年に経済学部に入学した。学内では、アイドルに羨望のまなざしが向けられた……わけではなかった。
「同級生たちは、裕福でまじめな家庭の子どもが多かったためか、“お前、いつまでアイドルやってるの?”と言われていたそうです。卒業後は有名企業に就職することが多い彼らにとって、櫻井さんの仕事は異質だったのかもしれませんね」(櫻井の知人)
'04年に大学を卒業し、芸能活動に専念できるようになった。'06年には、舞台『ザ・ビューティフル・ゲーム』で主演を務めた。
「アイルランドとイギリスの内戦中に、国境を越えてサッカーをする物語。華原朋美さんや脇知弘さん、黒田勇樹さんらが出演しました」(スポーツ紙記者)
共演した黒田は、櫻井と年が近かったこともあり、すぐに打ち解けられたと話す。
「僕や脇さんと同じ楽屋だったので、すぐに仲よくなれました。楽屋ではよくマンガの話をしていましたね。彼が食事に誘ってくれることも多く、大阪公演ではよく焼き肉店に行きました」
一方、稽古では座長としてみんなをまとめていた。
「櫻井くんが率先する形で、みんなでセリフの読み合わせをしました。毎日、仕事で忙しそうだったので、僕たちからは提案しにくかったのですが、彼のほうから“ここ、みんなで合わせようよ”と言ってくれたんです」(黒田)
この舞台を通して、親睦を深めたのか、こんな遊びも。
「大阪で打ち上げをした後、帰りの新幹線で、じゃんけんに勝った人がほかの人に命令できる王様ゲームをしたことを覚えています。“〇〇がモノマネをする”“カチカチに凍ったバニラアイスを食べる”といったたわいない内容でしたが、すごく盛り上がりましたね」(黒田)
勉強熱心な姿が……
同じ年の10月からスタートした報道番組『news zero』(日本テレビ系)では、月曜キャスターに抜擢された。
番組開始当初から'18年9月までメインキャスターを務め、現在は関西学院大学教授の村尾信尚氏に話を聞いた。
「会議では、ほかの人の意見をきちんと聞いて、意見を聞かれると“若い人に伝えるためにもう少し丁寧に原稿を書いたほうがいい”など、“若い世代にニュースを届ける”という番組のコンセプトを意識した発言をしていましたね」
難病の子どもたちや障がいのある人たちに対しては、こんなことも。
「取材で関わった際は、激励のメッセージを書いてあげることもありました。スポーツでも、特に障がい者スポーツの取材に力を入れていた印象です。“彼らに対して自分にできることはないか”と櫻井さんのほうから積極的に提案していましたよ」(村尾氏、以下同)
12年間一緒に仕事をしてきて、勉強熱心な姿が印象に残っているという。
「当時、アシスタントディレクターの人たちを集めて、ニュースで取り上げられる内容に関する勉強会を開いていました。土曜日か日曜日の午後に、僕が教授をやっていた関西学院大学の東京キャンパスの教室を借りて、スタッフ20人に講義する形式で年に2回やっていたのですが、そこに櫻井さんも来たことがありましたよ」