「点取り屋」が背負う宿命と葛藤

「旧東ドイツ側なので街並みもそこまで明るくないし、ひっそりした感じの、すごく静かな町でしたね」

 永里がこう評したのが、最初に暮らした海外の地・ポツダムだ。ベルリンから26キロ南西に行った人口18万の町は、第2次世界大戦時に日本への降伏要求「ポツダム宣言」が出された歴史的な土地でもある。

 到着後、すぐ練習に参加したが、ドイツ語はまったくわからない。ほかの選手がやっていることを細かく観察して、実践することからスタートした。英語を操る選手も少ないため、全員とは意思疎通ができない。それでも家から練習場まで送り迎えしてくれる仲間ができ、サポートを受けられるようになった。

「その彼女はドイツ育ちの外国人。ドイツ語はネイティブで英語もしゃべれたんで、“今日車で送れる? っていうドイツ語はこう言うんだよ”“誰かを探して必ず言いなよ”と教えてくれて、ホントに助かりましたね。

 ドイツ語の学校にも週2回通って1日4時間、勉強しました。すべてドイツ語で授業をするんで、最初は何を言っているのか理解できなかったけど、3か月くらいたったら、なんとなくわかってきた。その状態でインタビューも受けるというムチャぶりもあった。なんとかやりとげましたね

 と、懐かしそうに笑う。

 それから1年余りが過ぎた

 '11年3月11日、東日本大震災が発生した。「1000年に1度の災害」に見舞われ、福島第一原発事故も起きるなど、日本中が絶望感に襲われた。'11年女子W杯が開幕したのは、その3か月後。ドイツ暮らしの永里は「第2のホーム」とも言うべき場所での世界舞台ですべてを出し切り、母国を勇気づけようと奮起した。

 日本はニュージーランド戦からスタート。最初のゴールを奪ったのが永里だった。2─1で勝利し、幸先のいい一歩を踏み出すと、次のメキシコ戦も4─0で勝利。3戦目のイングランド戦は0─2で敗れたが、背番号17をつける最前線のキーマンはここまで全試合にフル出場していた。

 ところが、北京で敗れた宿敵・ドイツと準々決勝。リベンジに燃えていた永里は前半のみで丸山桂里奈との交代を強いられる。

 その理由を佐々木監督はこう説明した。

「ドイツ移籍から1年以上がたった優季をなでしこの合宿に呼んだとき、“攻守の切り替えが遅い”と感じたんです。本人に聞くと“ポツダムでは点を取るのが仕事。ゴール重視でやってます”と言う。でも、なでしこのサッカーは切り替えが生命線。気がかりに感じていたときに、イングランド戦で失点した。優季の動きも一因になっていました。

 それをドイツ戦の前に、再び優季に話すと“ノリさん(佐々木監督)の言うことはわかりますし、自分の役割も理解していますけど、私は点を取ってチームに貢献したい”と強い意思を示した。私も悩みましたが、チームバランスを考えて別のFWを使うことにしたんです」