しゃべれない少年を支えた恩師
1968年、埼玉県富士見市で生まれ、2歳から、入間郡三芳町に移り住んだ。
父親は伯父とともに伝票専門の製本所を営み、母親はパートで働き家計を支えていた。2つ下と8つ下に、妹が2人いる。
「うちは貧しかったですね。着るものも、全部いとこのおさがりだったし、運動靴も破けちゃって、晴れの日も長靴で学校に行ってました。だけど子どもだから、貧乏とか気にしなかったな」
ざっくばらんに話す姿からは想像できないが、幼少期は極度の口下手だったという。
「とにかくしゃべれない子でね。言葉が出ないから、ちょっかい出されると、すぐに手が出ちゃう。そんで、取っ組み合いのケンカになっちゃう。小学校に入ってからは、毎日のように怒られて、廊下に立たされてました」
そんな秋葉少年が、唯一の理解者と出会ったのは小学2年生のとき。
それが、テレビ番組で再会した吉野雅美先生だった。
「授業中に当てられても『うんとね』しか言えない俺を、先生は気長に待ってくれて。『秋葉君が言いたいのは、こういうことかな』って言葉にしてくれました。4年生まで3年間、吉野先生が担任で、俺、救われたんです」
高学年になっても、ケンカっ早いのは相変わらずだったが、それも小学校卒業を境におさまった。
「卒業式で吉野先生に涙ながらに言われたんです。『秋葉君、もうケンカしちゃダメだよ』って。だから俺、先生との約束を守ってきました」
地元の公立中学校に入学後は、野球部に入部。ケンカのエネルギーを部活に注いだ。また、3年生の体育祭では応援団の団長まで務め上げた。
高校は、「手に職をつけろ」という父親のすすめで、電気工事士資格の合格率が高い県立狭山工業高校に入学。高校3年生のときには生徒会長に立候補し、見事に当選した。
「そのときの公約が、俺が生徒会長になったら、パンしか買えない購買部で弁当を買えるようにするってこと。当時は男子校で、食べ盛りの男ばっかでしたからね、みんな盛り上がってくれました。もちろん、当選後は学校と掛け合って、公約を実現しました」
このころには“口下手の秋葉君”はどこへやら。『弁当会長』と呼ばれ、級友や後輩から頼られる存在になっていた。
もっとも、「優等生なんかじゃなかった」と笑う。
「俺が通ってたのは、当時、埼玉県で“三大ワル高校”って言われるほど、不良が多い学校でね。やんちゃしてるやつもいっぱいいました。俺も髪を茶色く染めてパーマなんかかけて、見た目はチャラかったですね。バイクが好きで、よく走らせてました。あ、でも暴走族とかじゃないですよ!」
ちょっぴりやんちゃな青年は、のびのびと青春を謳歌した。
そして、この高校時代に今の原点となる仕事に出会う。