テレビ局との結びつきが弱かったが……
停滞ぎみのオスカーに再び光をもたらしたのが、米倉涼子と菊川怜だった。
「2人はモデルとしての活躍を経て、'99年に『女優宣言お披露目発表会』という会見を開き演技の道へ。米倉さんは松本清張作品などに出演して本格的な女優路線を一気に駆け上がります。菊川さんは知的なイメージからバラエティー番組のオファーも多く、2年連続のCM女王にも輝きました。“女優宣言”や“CM女王”というオスカーのイメージは、彼女たちが作ったんです」(同・オスカー関係者)
続いてオスカーの名を高めたのが、上戸彩。'01年に『3年B組金八先生』(TBS系)で“性同一性障害に悩む中学生”という難役を演じて、世間に驚きを与えた。
「上戸さんの売れ方は驚異的でしたよ。マネージャーはドラマの撮影が終わると彼女を家に送り、自分はそのまま車内で仮眠をとってまた次の現場まで送るという日々の繰り返しだったなんて話も。彼女はオスカーとしては珍しく歌手としても活躍し、'04年の『紅白歌合戦』に出場。通算で6回のCM女王にも輝きました。古賀会長は小学生だった上戸さんをひと目見て“後藤久美子の再来だ”“この子は日本の芸能界を変える”と断言したそう。幼かった彼女の才能を見抜いていたんですね」(同・オスカー関係者)
勢いそのままに'00年代に入ると、剛力彩芽、河北麻友子、福田沙紀、武井咲、忽那汐里、堀田茜、高橋ひかるなど、今日に至るまで数多くのスターを生み出してきた。しかし、原点がモデル事務所だったオスカーには苦労もあった。
「テレビ関係者などとの結びつきが弱かったんです。業界の人脈をつくるため、古賀会長は強い印象を残すことを目指して“来た人が度肝を抜かれるような食事会をしなくては”と考えたそうです。例えば、最高で1人3万円のコースのお店なら“1人6万円で作ってほしい”とお願いしたり。1人10万円で用意させたこともあったそうです(笑)。でも、食事の場で“うちの○○をなんとか……”なんてヤラしい話はいっさいなし。それがよかったんですね。業界ではすぐ評判になりましたよ」(テレビ局関係者)
モデル事務所だったことが、むしろアドバンテージになったケースもある。
「'80年代当時、芸能プロダクションは所属タレントが雑誌の表紙を飾ることを、それほど重要視していませんでした。でも、オスカーは雑誌に出るメリットを知っていたんですね。
モデル事務所から始まったので、ファッション誌をはじめとする雑誌業界とのつながりはもとから強かった。古賀会長は精力的に売り込み、ファッション誌が最盛期を迎えた'90~'00年代には、オスカーのタレントが雑誌の表紙を席巻。旬なタレントのプロモーション期間に、あらゆる雑誌の表紙を独占する“表紙月間”という現象も、オスカーが生んだものですよ」(ファッション誌編集者)
昨今は主力タレントや敏腕スタッフの退社問題に揺れるオスカー。経営方針の転換が理由とされるが、築き上げた“美の財産”を軸にこれからも進化を続けてほしい。