さらに、月給制にすることで、生活の不安定な芸人の囲い込みに成功した。
「実力に合わせて金額を決め、人気絶頂だった初代桂春団治は月給700円。1000円で家が建った時代です。一方で、入場料は抑えて客を呼び寄せます。現在の400~500円という破格の安さでした。そのかわり飲食の販売で儲けを出します。夏になると“冷やし飴”を氷の上でゴロゴロ転がしながら入り口で売りました」(同・スポーツ紙記者)
昭和に入ると、吉本は全国的に知られるように。
「昭和の初めに浅草に進出し、さらに神田や新宿や横浜にも寄席を持つようになりました。今の吉本が東京に持っている劇場を上回る数です。吉本所属の芸人エンタツ・アチャコが“しゃべくり漫才”で東京に進出。東宝と組んで主演コメディー映画を撮り、全国的な人気になります。喜劇も落語もどちらもいけたのが柳家金語楼さん。さんまさんや鶴瓶さんの元祖みたいな芸人でした」(西条教授、以下同)
そのころから吉本はメディアの利用が上手だったという。
「初代桂春団治さんがNHK大阪のラジオ局と組み、吉本に無断で落語を放送するという事件がありました。吉本は“ラジオで落語を無料で聞かせるとお客さんが寄席に来なくなる”と考えていましたが、ラジオで春団治さんを知ったお客さんが寄席にやって来たんです。ラジオに“価値”があるとわかり、エンタツ・アチャコを積極的にラジオに出すと全国的な人気に。レコード、映画など新しいメディアを積極的に利用するようになっていきました」
テレビ進出を機に事業拡大
プロデューサーとしてせいを助けたのが、弟の林正之助だった。吉本を発展させていくが、戦争でほとんどの劇場が壊滅。正之助は芸人たちに“解散”を宣言して、大阪での事業は映画を中心にした。
「1959年に毎日放送などの民放テレビ局ができたのを機に、吉本は演芸部門を復活させ映画館だった『うめだ花月』を演芸場に戻しました。吉本に残っていたのはアチャコさんだけでしたが、改めて漫才師や落語家を集め、『吉本新喜劇』も作りました」
そのころは多くの大御所を抱えていた松竹芸能が人気となっていたが、毎日放送でテレビ中継されることで吉本新喜劇の知名度が向上。吉本は若手中心に勢いを強めていく。
「1980年代の漫才ブームで吉本の若手が伸びていきました。“格”を大事にしていた松竹に対し、吉本は面白ければ若手でも活躍の場が与えられました。さんまさんなどがどんどんテレビに出て人気になり吉本は東京に再進出します」