未曾有の原発事故から10年。母子避難者の森松明希子さんにとっては、住み慣れた地域を追われた年数でもある。子どもたちが夜行バスでやってくる父親に会えるのは、今も月に1度だけ。家族一緒の暮らしは奪われたままだ。国連の壇上で、講演で、裁判で、森松さんは声を上げ続ける。避難した人も、とどまる人も、等しく大切な命だから。
問題の本質は“被ばく”です
2011年3月11日、東日本大震災・福島第一原発事故が発生した。そしていま、「原発事故から10年」という文字が飛び交う。しかし、被害を受けた当事者にとっては、あの日から地続きの積み重ねが3652日目を迎えるだけだ。ひとりひとり、事故前の歴史と、事故で断絶されたその後の歴史がある。
事故から7年後の'18年3月18日、スイス・ジュネーブの国連人権理事会の壇上に、1人の日本人女性の姿があった。森松明希子さん──。2人の子どもを守るため原発事故後、福島県郡山市から関西へと避難した女性だ。
「今後も福島、そして東日本の、特に、脆弱な子どもたちを、さらなる被ばくから守ることに力を貸してください」
そう世界に訴えた彼女は国内各地でも、精力的に講演活動を行っている。
「問題の本質は“被ばく”です」
森松さんは、筆者の取材の最初にそう言った。原発事故は、核災害であり、命が脅かされる「被ばく」を伴う。その本質から逸れると、原発から遠くに住む人には、何が問題なのか見えにくくなってしまう。
「命より大切なものはない」という強い思いを森松さんは持ち続け、「放射線被ばくから免れ、健康を享受する権利は、最も大切な“基本的人権”にほかならない」と訴える。
森松さんは、いわゆる「自主避難者」だ。政府の避難指示がなかった地域から、子どもを連れて避難した、「区域外避難者」とも呼ばれる。筆者も含め、メディアは「わかりやすさ」から、「自主避難」という言葉を使う。
しかし、その言葉のせいで「必要もないのに勝手に避難を選択した人たち」と勘違いされ、避難が「自己責任」にされてしまう原因ともなっている。
森松さんは「この“自主避難”という言葉が、私たちの苦悩を、より増幅させている」という。原発事故のせいで被ばくさせられる環境がなければ、誰ひとり、避難などしなかった。だから、森松さんは「自力避難」という言葉を使っている。自分の力で、避難するよりなかったのだ、という思いを込めて。