臨月で大きなお腹を抱える妊婦も
仙台市街から車でわずか10分ほどの若林区。七郷小学校には、1200人もの被災者が避難をしていた。
トラックで食料や飲料が運び込まれ、自然発生的に始まったバケツリレーに、記者も加わった。ヨーグルト、ヤクルト、牛乳、シュークリーム、菓子パン、みかん、リンゴ、水など。実に2000食あるという。
「1200食が必要なのに、昨日は足りなかった。2000食あれば大丈夫です」
と、小学校教諭らボランティアたちが喜んでいた。
徐々に物資が届いてはいるが、やはり避難所生活は楽なものではない。農家を営んでいた60代の女性は、
「近くで働いている息子が車で戻ってきて、“早く逃げよう。津波が来る!”って。だから、服はそのまんまで着替えはありません。家もなくなっちゃったけど、家族5人が全員無事なのが不幸中の幸い。近くの遺体安置所に探しに行く人もいます。明日、身元がわかった遺体の葬式をするって聞きました。テレビはないので、ラジオを聞いたり、新聞を回し読んだりしています」
犬を連れていた40代の男性は、悲痛な胸のうちを明かしてくれた。
「もうね、何もなくなっちゃった……。仕事場からそのまま避難したので、スーツ1着しかないし、免許証もなければ、私は右足が悪いのですが障害者手帳も持ってきてない。
家があった場所は今でも立ち入り禁止だし、ご近所さんたちはどこへ行ったかもわからない。祖父の代から3代続いた家だったんだけど、私の代でなくなっちゃいました……」
これからのことを考えたときに、一気に絶望感が押し寄せてくるようだった。
20代の美容院勤務女性は、
「家族バラバラになっていて、お母さんと連絡がつきません。別の避難所にはお父さんがいて、ずっと電話をしているみたいなんですが、どこの掲示板を見てもお母さんの情報がないんです。携帯もつながらないんです……」
さらに、
「友達と避難所で会えて喜んだんですが、その友達のお父さんとおばあちゃんが流されて亡くなってしまったんです。なぐさめることしかできませんでした」
自らの悲しみや不安を隠しながら、友人の悲しみをなぐさめるなんて……。
ほかにも、避難所には臨月の妊婦がいた。
「ずっとお腹が張り続けていたんです。母と一緒に車で逃げたんですが、“いまはお願いだから出てこないで”って祈ってました」
後日、無事に生まれたという連絡が入った。悲劇から3日後のことだった。
目の前の光景に絶望
七郷小学校から1キロ離れた荒浜に向かった。200〜300人の遺体が見つかったというあの場所だ。見渡す限り水田のようになっていて、水もまだ引いていない。積もり積もった泥の海。
これまで見たどの被災地よりも、広範囲にわたって津波にのまれていた。地面はグチャグチャとぬかるみ、まともに歩くこともできない。遠くでは黒い煙が立ち上り、サイレンが鳴りやまない。泥にまみれていた1冊の卒業アルバム、ビリビリに破れた教科書なども。ほとんどの家が流されたこの地にあって、ポツリと残された家の前で、とある男性は、
「家の前にある塀の高さまで津波が押し寄せましたよ。家も家族も無事だったんだけど、従姉妹から連絡がないんだよね……。もっと海側にいたんだけど、流されちゃったと思う……。今は片付けをしながら待つしかないよね。救助隊が来てもさ、この泥は誰も片づけてくれないでしょ?」
その海側まで行こうとすると、規制線が張られ、立ち入ることができない。目の前には絶望的にすら思えてしまう光景が、ただ広がっていた。