この点を「あまりに不自然」だとして、検察側は詰問したが、Bは同じ返答をした。
――音声アプリで「いくよー、ライトライトライト、3、2、1」と言っているよね?
「はい。(そう言ってるけど)僕は何もしてませんでした。(石は)投げてません」
――じゃあなんで、ライトライトライト、って言ってるの?
「僕はスマホしか持ってなかったので。Cは懐中電灯を持っていたので」
――じゃあ石投げないなら、なんでそんなこと言うの? なんの意味があるの?
「意味は……ないですけど、『自分は投げんから、そっち投げてー』と言うと、『なんで俺だけ投げて、そっちは投げんのやー?』ってなるから」
Bはそれ以上、説明のしようがないというふうに、くり返した。検察は論告で、Bのこの話を信用できないものと断じ「音声アプリの通話記録から、互いに投石の準備をして、Bがかけ声をかけてAと二人で投石したと考えるのが、自然かつ合理的」とした。
気を引いて、追いかけられたかった
確かに、Bの話は「不自然で非合理的」に思える。でも、AやBや仲間の話から共通して浮きあがる「みんなで、一緒に」ルールが、見えない掟のように存在し、彼らにとってはそれが至極当然な「自然」だとしたら、あり得ないことだと言いきれない気もした。
でも真実はわからない。嘘なのか、理解できないだけなのか。それは例えばこういうことか、こういう気持ちなのかとさらに掘り下げ、直接、尋ねられないことがやっぱりもどかしかった。審理の場は、心理を追う場ではないのだと、その限界を痛感した。
Aと対立したBの投石行為については、「2、3cmくらいの石を拾って、おじいさんの後ろ、1~2m位の地面に向かって投げました。石を投げるのは相手の気を引くためだったので、その位置に向かって投げました」。さらに、気を引くために「わざと足音を立てて、近くに走っていく」などの行為もしたという。
何のために、相手の気を引こうとするのか、と検事に問われたときには、
「気をひいて……、渡邉さんが鉄パイプを持って追いかけてくるか、石を投げてくるのを……、求めていました」
つまり、『追いかけられたかった』というのだ。
以前、兵庫で起きたホームレス襲撃事件の加害者少年たちに会いに行ったときも、同じ言葉を私は聴いた。最初は小さな石だった。小屋に投げると、野宿者の男性が飛び出してくる。それがやがて、小さな石では反応しなくなり、大きな石やボール、ブロック、消火器、だんだん大きなものを投げるようになっていた。「追いかけられないと、面白くないから」と少年は言った。自分たちは遊びのつもりでも、相手に与える恐怖や命を脅かす危険性をわかっていない。その意識の落差と幼さに、愕然とした。
検事から「石を投げるのが、何が楽しかった?」と問われたとき、Aと違ってBは「楽しいと感じた覚えはないです」と、答えた。
「初めて行ったときは、ぼくが中学校のときに後輩が(河渡橋に襲撃に)行ったという噂を聞いて、そのことを小牧城でホームレスを見たときに思い出しました。(中学で噂を聞いてから)4、5年たっていたので、まだいるんかなぁーという思いで、行ってみたら、おじいさんがいて、鉄パイプを持って僕らを追いかけてきたり、僕らに向かって石を投げてきたり……、そういうスリルというか、恐怖感を味わっていました」