そこで、19歳のときに知人を通じて新聞記者であり作家の半井桃水を紹介してもらう。一葉は、半ば押しかけ女房的に桃水に弟子入りをする。そして、桃水のすすめで、本名の奈津ではなく「一葉」というペンネームを使うことにした。
「一葉」の由来は「インド僧の達磨が一枚の葉に乗って中国に渡り手足を失ったこと」と、「貧乏(お足がない)」を掛けたこと。当時の極貧生活を皮肉ったペンネームなのである。
一葉は、桃水が主宰する同人誌、新聞などで小説を書き始めた。しかし、彼女が望んだほどの収入はない。なんとか一発逆転を願った一葉だったが、現実はそううまくはいかなかった。
遊郭・吉原での生活が活動の原動力に
このころの一葉の筆致は、桃水の影響をもろに受けている。というのも2人は「友だち以上恋人未満」のような、甘酸っぱい関係だった。しかし、当時は結婚を前提にしていない男女が仲良しだと「下品じゃない?」と白い目で見られる時代だ。
だから2人のスキャンダルも萩の舎で「ちょっとちょっと、あんた桃水と付き合ってんの?」と同門から問いただされることになる。それで一葉は、桃水との師弟関係を嫌々、断ってしまう。ラブストーリーとしてほろ苦いが、一葉にとって発表の場を失ったこともダメージになる。
そこで、姉弟子の三宅花圃に「書かせてくれるところ、ないですか」と相談。三宅は「よっしゃ、姉ちゃんに任せときな」と、文芸雑誌『都之花』を紹介した。一葉は1901年、20歳で小説『うもれ木』を書き上げ、初めて原稿料の11円75銭を受け取る。ひと月、7円で暮らしていた樋口家にとっては大金だった。
一葉はこのあとに三宅から雑誌『文学界』にも誘われ、21歳で『雪の日』を書く。しかし、まだ継続的に執筆料が入るわけではなく、樋口家は質屋で物を売ることで、なんとか生計を立てていた。
じり貧の状況を打開すべく、樋口家は一念発起。遊郭・吉原の近くに引っ越して雑貨店を開く。しかし、貧乏神に呪われているのか、単に商才がないのか、商売もうまくいかなかった。その結果、悲しいかな、わずか10か月で店を畳むことになる。
しかし遊郭・吉原で過ごした日々は、一葉にとっては大きな実りとなる。吉原付近に住む貧しい人々のリアルな暮らしを知ることで「人や社会を見る目」が養われたからだ。
「生まれは中流階級のお金持ちだったし、幼いころは天才文学少女だった。でも、今はすごく貧乏な暮らしをしている」。どん底まで落ちてプライドを失った自分の境遇と、吉原の近くで暮らす貧しい人たちが重なった。一葉はこの時期に、過去の栄光を心から捨て去る。そして、女流作家として自分が書かねばならないことがわかってくるのだ。