11作品を一気に書いた「奇跡の14か月」
一葉は'94年5月、22歳で吉原の近くを去る。一家の稼ぎは芳しくなかったが、ここからが作家・樋口一葉の全盛期でありクライマックスだ。
なんと同年12月の『おおつごもり』から'96年2月の『うらむらさき』を発表するまでの14か月間に、11作もの小説を執筆するわけである。
なかでも『文学界』に載った『たけくらべ』では、遊女の娘として生まれ「自分も大人になったら遊郭で働かなくてはいけない」という運命にあるひとりの女性を描いた。悲しみ、やりきれなさだけでなく、女性としての強さやプライドも描いている。
同作は『文学界』の面々や、大物だった小説家・斎藤緑雨から絶賛された。また『にごりえ』『十三夜』などの作品も注目され「こりゃ、とんでもない女流作家が出てきた」と、文学者のなかでにわかに話題となる。
'96年には『文学界』よりはるかに発行部数の多い『文藝倶楽部』にも『たけくらべ』が掲載され、樋口一葉の名は爆発的に世の中に広まる。森鴎外、幸田露伴らの有名作家も絶賛し、一葉のもとには執筆依頼が殺到した。
長年の苦労がついに花開き、彼女の作家人生が報われる……かのように思われた。しかし、'96年4月時点で一葉の身体は、当時は不治の病であった肺結核に蝕(むしば)まれていたのだ。しかも、すでに末期症状だった。
一葉はとうとう執筆に着手できなくなる。自身も医学博士である森鴎外は「この才能を終わらせてはいかん」と名医を紹介して一葉を診せる。しかし、'96年8月の新聞には医者から「病状絶望」とのコメントがあるとおり、もうどうしようもなかった。
そして ’96年11月23日の午前、樋口一葉は文壇全体が新作を待ちわびるなか、24年の短い生涯を閉じることになる。
短命でありながら数々の名作を世に送り出した樋口一葉。彼女の代表作のほとんどは、前述のように'94年12月から'96年2月までに書かれている。この期間は、後年「奇跡の14か月」と呼ばれるようになる。
まず「14か月で11作品」は半端じゃないペースだ。心身ともに削られるだろう。いや、何の変哲もない作品ならば、ささっと書けるかもしれない。彼女がすごいのは、この期間で大絶賛の嵐となり、いまだに語り継がれる小説を何本も残したことだ。
この背景にはもちろん「貧乏」ゆえのハングリー精神があった。「家督として一家を支えなければ」という思いもあっただろう。実際のところ『にごりえ』のテーマは「貧乏な暮らしと希望」だ。
しかし、彼女の文章を読んでいると「お金のために書く」という鈍重な雰囲気をまったく感じないのだ。一葉の小説は、句点がめちゃくちゃ少ない。まるで落語を聞いているかのようなスピードで、すらすらっとリズミカルに読めてしまう。文章から「書かせて!」というポジティブな意志が伝わってくるようだ。
もともとお金持ちだった彼女は、父親を失って借金を背負った。好きな人とも別れ、吉原付近での暮らしで「かつて上流階級だった自分」のプライドも捨てきった。目の前にあるのは「表現したいこと」と「小説」だけだったのではないか。
樋口一葉は物語を書く喜びに目覚めていたはずだと思う。「借金を返すために書く」のではなく「女流作家として表現すべきことがあるから書く」。何より奇跡の14か月のすさまじいスピード感は、「楽しさ」がないと出せないはずだ。
日本で初めて「女性として小説だけで生活をする作家」となった三宅花圃が、女流作家の第一歩を踏み出したのだとしたら、「女流作家が活躍するための轍(わだち)」を作ったのは、間違いなく樋口一葉だと言えるだろう。
彼女はいま5000円札のなかにいる。財務省の発表によると、彼女がお札の顔に選ばれた理由のひとつは「女性の社会進出に貢献したこと」だ。
その結果、彼女がお札になったのはもちろん分かる。しかし、私は「樋口一葉は5000円札にいるべきじゃない」とも感じたりするんです。一葉は確かにお金のことを考えていたけれど、お金なんかじゃ評価できない「創作」という素晴らしさを極めたように思えて仕方がないのだ。
そんな彼女をお金に縛りつけてしまうのは、すこし皮肉が過ぎるんじゃないか……なんて、ひねくれたくなってしまうのである。
(文/ジュウ・ショ)
【PROFILE】
ジュウ・ショ ◎アート・カルチャーライター。大学を卒業後、編集プロダクションに就職。フリーランスとしてサブカル系、アート系Webメディアなどの立ち上げ・運営を経験。コンセプトは「カルチャーを知ると、昨日より作品がおもしろくなる」。美術・文学・アニメ・マンガ・音楽など、堅苦しく書かれがちな話を、深くたのしく伝えていく。note→https://note.com/jusho