目次
Page 1
ー 若者たちの“短歌ブーム”の火付け役 ー 不条理を抱えた子ども時代「人の悪意がわからなかった」
Page 2
ー 大学を中退、歌人人生のスタート
Page 3
ー 『かんたん短歌』で異端児として歌人デビュー
Page 4
ー 結婚、そして離婚。妻からストーカー扱いされて─
Page 5
ー 探偵を雇い探し続ける日々 ー 自殺を考えた日々に出合った「お笑い」
Page 6
ー 最初で最後の暴力

 

口語短歌が主な作風で、短歌界では異端児扱いを受けてきた枡野浩一さん。今年春からは『NHK短歌』の選者を務め、「歌人さん」の芸名で芸人デビューも果たした。この景色に行きつくまでにはさまざまな葛藤があったという。

《毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである》

 歌人で芸人でもある枡野浩一さん(56)の作品だ。

若者たちの“短歌ブーム”の火付け役

西荻窪『今野書店』でのお笑いライブで。基本はピン芸人だが、コンビを組むときは弁護士で芸人の藤元達弥さん(右)が相方だ
西荻窪『今野書店』でのお笑いライブで。基本はピン芸人だが、コンビを組むときは弁護士で芸人の藤元達弥さん(右)が相方だ

 現代語で短歌を詠み、若者たちの“短歌ブーム”の火付け役となった枡野さん。冒頭の短歌は2022年に刊行された『毎日のように手紙は来るけれどあなた以外の人からである 枡野浩一全短歌集』(左右社)収録作。高校の教科書に掲載された代表作を含む同書は、現在9刷。デビューから27年、歌人として揺るぎない評価を得た。

 そんな彼は、爆笑問題や'22年のМ―1グランプリでチャンピオンとなったウエストランドが所属する芸能事務所『タイタン』に今年の5月から所属している。

 芸名は「歌人さん」。『タイタンの学校』6期生として一年間、ふたまわり下の同期らと学んだという。

「僕を含めて50代以上が5人くらいいて、40代もいて、息子くらいの子たちももちろん多くいて。僕はほぼ皆勤で通っていました。宿題や提出物も一度も忘れたことはないです。なんなら仕事も断ってタイタンの学校に通っていたくらいで(笑)」(枡野さん、以下同)

『NHK短歌』にもレギュラー出演する歌人がなぜ、お笑いの世界に飛び込んだのか。人生の紆余曲折の中にその答えはあるのだろうか─。

不条理を抱えた子ども時代「人の悪意がわからなかった」

 枡野さんは1968年9月23日に仮死状態で生まれた。

「関東逓信病院(現在のNTT東日本関東病院)で、へその緒が首に巻きついて生まれてきたようで、叩いてようやく泣き声をあげたとか」

 東京・西荻窪で育ち、今も周辺に住んでいるものの当時の記憶はない。

「親の都合で茨城県水戸市に転居し、水戸市の中で計4つの小学校へ通ったんですよ。思い出はないんですけど、記憶って土地につくと思うんです。普段忘れているけど、近くを歩くと思い出すような」

 3歳上と4歳下に姉と妹を持ち、厳格な両親のもとで何不自由なく育った。

「母が専業主婦で、父は研究者でした。両親は厳しく、テレビはNHKしか見ちゃダメだった。小さいときは、ピンク・レディーとキャンディーズの区別もついていなかったんです。それで本好きになったのかな」

 習い事はピアノにバイオリン、スイミングスクールと情操教育を受けたようだが─。

「ピアノはまったくやる気がなく、上達しませんでした。バイオリンは自分で『やりたい』と言ったものの、全然練習しなくて初心者の曲を発表会でやっただけです。運動ができない僕を親が心配し、スイミングスクールにも通わせてくれたのですが運動音痴なままでした」

 現在はシニカルな視点を持った短歌が有名な枡野さんだが、子どものころは他人の悪意がわからず競争心も希薄だったという。

「幼稚園の工作の時間に、僕の作品が盗まれたんです。そのとき初めて人の悪意というものに触れたのかな。僕は人のものを盗るとかアイデアをパクるっていう発想がなかったので驚いたんですよね。小学校の友達に自転車のベルを盗まれたときも、ただびっくりしました。人の悪意にはいまだに鈍感かも」

 枡野少年には競争心がなかった。

「かけっこが何かがわかってなかったんですよね。僕がトップを走っていてもみんなが遅いのを心配して振り向いたら、ビリになっちゃったりとか。速く走ることがなぜいいのかいまだにわかんない。オリンピックの楽しみ方もよくわからないですね」

 そんな枡野少年の楽しみは、図書館での読書。

「小学校高学年から転居した東京・小平市内には図書館がたくさんあったんです。子ども向けの児童書とかSFとか。作家でいうと、筒井康隆とか、星新一とか。小松左京とか北杜夫とか遠藤周作とか読んでいました。中でも星新一さんの『ショートショート』がのちの短歌につながったと思います。当時から短く書くことに憧れたんですよね」

 テレビやアイドルの話を友達とすることもなかった。

「勉強は小学生のときは普通にできたし、作文が得意だったので、他人のものも書いてあげた。宿題忘れたときも、作文を書いてあるテイで朗読し、一瞬で書いて提出したり。でも、漢字は0点。作文もひらがなで書いたりしていたんです。当時からできることと、できないことが極端だった」

 中学ではレザークラフト部に所属、友達もつくらず淡々と過ごしたという。都立小金井北高校に進学し、徐々に文学への目覚めが訪れる。

「廃部寸前の文芸部に入って、1年生で部長になったんです」

 一人で多数の筆名を使い、ショートショートや詩を書いた。見かねた図書室仲間が入部したが、方針をめぐって、枡野さんは退部した。

「高校時代を舞台にした小説『僕は運動おんち』(集英社文庫)を書いたときに当時の友人を取材したんです。バレーボールの試合でストレート負けするシーンがあるんですけど、友達が書いてくれた僕の描写をそのまま転載したんですよ。その箇所がいちばん面白いと言われると、ショックですね(笑)」

 このころ、歌人でエッセイストの俵万智さんの『サラダ記念日』(河出書房新社)が出版され、空前のブームになっていた。

「教科書の短歌には興味がなかったんですが、俵万智歌集には夢中になりました。本好きの母がブームになる前の初版本時に『サラダ記念日』を買ってきたんです。それを読んですごく面白いと感銘を受けた。

 当時、他の人たちは『誰でも書けそう』と言っていましたが、僕は逆で『まねできない』と思いましたね」